しかし.....
あの時のあの情景は、今では悲しく遠い想い出となっている。

昭和59年9月、突如襲った長野県西部地震で「濁川温泉」は家族もろとも想像を絶する大量の土石流の底に沈んでしまったのである。
親爺さんたちは、その時すでに隠居の身で里に下りていて災禍に遭わなかったのだが、息子の嫁さんと孫夫婦にひ孫の4人が犠牲となり、誠に悲しく痛恨極まりない災難となってしまった。

スクラップブックには、地震の翌日ヘリコプターで現場対岸の山頂に降り温泉宿があった辺りを遠望して、悲嘆にくれる半場爺さんの新聞記事(左掲)が残っている。その心中や察するに余りあるものがある。

次の2枚の絵は昭和53年秋、仲間で「お絵かきのお勉強」と称して出かけた折の作品であり、私にとっては濁川温泉の往時を記録する貴重な絵となっている。


NIGORIGAWA spa (1978)





人里離れた電気も通わぬ山奥の温泉宿は、我が常連達の密かな「夢の里」であった。

木曾福島から王滝川沿いの林道を車で約1時間遡上し、さらに徒歩で谷底へ20分ほど降りたところにある。
半場千秋爺さんと小春婆さんの夫婦が世話をするたった一軒の温泉宿、というより山小屋といったほうが似合いそうな・・・・・そんな宿が「濁川温泉」であった。

明治10年ごろ、千秋爺さんの祖父が拓いたというこの温泉は、'ニゴリガワ'と呼び飛騨側から入る濁河(ニゴリゴ)温泉とはまったく別の、まさに知る人ぞ知る「秘湯」なのだ。

フツフツと湧き出る温泉にゆったりと浸かった後、煤けたランプの下で泊り客全員がまるで旧き友の如く囲炉裏を囲む。ときに正調と自慢する親爺の「木曾節」に耳を傾けながら、炙った岩魚を肴に美味い地酒を酌み交わしたものである。
老夫婦の愛してやまない手乗り文鳥も、煤けた羽を広げて楽しげにはしゃぎまわり私達をもてなしてくれた。