人里離れた電気も通わぬ山奥の温泉宿は、我が常連達の密かな「夢の里」であった。
木曾福島から王滝川沿いの林道を車で約1時間遡上し、さらに徒歩で谷底へ20分ほど降りたところにある。
半場千秋爺さんと小春婆さんの夫婦が世話をするたった一軒の温泉宿、というより山小屋といったほうが似合いそうな・・・・・そんな宿が「濁川温泉」であった。
明治10年ごろ、千秋爺さんの祖父が拓いたというこの温泉は、'ニゴリガワ'と呼び飛騨側から入る濁河(ニゴリゴ)温泉とはまったく別の、まさに知る人ぞ知る「秘湯」なのだ。
フツフツと湧き出る温泉にゆったりと浸かった後、煤けたランプの下で泊り客全員がまるで旧き友の如く囲炉裏を囲む。ときに正調と自慢する親爺の「木曾節」に耳を傾けながら、炙った岩魚を肴に美味い地酒を酌み交わしたものである。
老夫婦の愛してやまない手乗り文鳥も、煤けた羽を広げて楽しげにはしゃぎまわり私達をもてなしてくれた。