国府町は遺跡の宝庫で、とりわけ古墳の多さは瞠目に値する。

古くは先土器時代(縄文時代の前)10,000年前まで遡る宮ノ下遺跡(上広瀬)に始まり、縄文時代前期(約五千数百年前)の村山遺跡(村山)、同中期の森ノ下遺跡(東門前)などの竪穴式住居跡が発見されている。とくに村山遺跡からは当時すでに関東、関西など他の文化圏との交流を物語る貴重な土器が出土した。

【米作の先進地域】

縄文後期から弥生期に入る頃、この地方で米作が始まったことを示すプラントオパール(稲の穂先)が発見された立石遺跡(漆垣内)があり、東海北陸地方では始めてで全国でも三例目といわれる。

荒城川、宮川両流域の豊潤な土地に、全国的にも早い時期に始まった稲作が急速に広まり、多くの集落が形成されていったものと思われる。
多くの遺跡からは御物石器や石冠など祭祀用の石器類が出土し、また西門前の深沼田遺跡では四十数枚の水田が発掘された他、南垣内や半田などでも古代水田跡が発掘されている。

【国府町は古墳の巣】

大和王朝の全国統一が進む頃(AD300年頃)飛騨地方もその影響を受け古墳時代に入っていく。

現在までに発見されている古墳数において国府町は他の地域を圧倒しており、飛騨地方全体で521基の古墳が確認されているが、そのうち実に4分の3に相当する384基が国府町に存在しているのである。(シンポジュウム「飛騨の古墳時代」より) 


こうした状況を見ると、米作を始めとした農業生産力の増大に伴う、飛騨文化発展の中心が国府町およびその周辺であったことは疑いえない事実であると思われ、人口が増加集中して数多くの集落が生まれ長(おさ)とも言うべき多くの権力者が輩出していったと推定される。

近年になって発掘された三日町大塚古墳(右の写真)は、周溝を廻らした全長100メートル級の大前方後円墳で、周溝の形態などから4世紀後半の築造と推定され、飛騨地方最古の古墳と目されるに至っている。
この頃から大和王朝の文化が飛騨地方にも本格的に移入され始めたと考えられ注目されている。(表題の背景は見取図)

それまで飛騨地方最古最大の古墳とされていた亀塚古墳(現在の国府小学校グランドで跡形もない)は直径60〜70メートルもの大円墳で、5世紀半ばのものと思われ刀や剣など多くの鉄製の副葬品が出土した。

また広瀬町桜野公園近くに県下最大の石室(天井の高さ3メートル)を持つ「こふ峠口」古墳(下の写真)があり、この地方最高の権力者の墳墓と推定され、大和朝廷から派遣された斐陀国造(くにのみやつこ)がこの地に居を構えていたのではないかとの説が有力である。
一説によればこの斐陀国造は尾張連系の大八椅命(おおやつはしのみこと)ではないかと言われている。


【飛鳥白鳳時代の国府は広瀬桜野】

飛鳥朝の時代に移って、大化の改新(646年)で世襲制の国造が廃され全国に「国司」が派遣されることになり、その役所を「国衛(こくが)」といい、その所在地を「国府(こふ)」と称した。
広瀬町桜野地区に「こふ峠」「こふの宮」「こふの瀬」「こふ平」「こふ野」など「こふ」のつく地名が多いのも国府の所在を裏付ける材料となっている。
仏教伝来(538年)以降、寺院の建築が盛んになり飛騨地方でも12箇所の古代寺院が建てられていたことが遺跡などで確認されている。

そのうち国府町には光寿庵(上広瀬)、石橋廃寺(広瀬桜野)、名張廃寺(名張)、塔の腰廃寺(鶴巣)、安石寺(現在の安国寺付近)の五つを数え、他に古川町に5箇所、高山市に2箇所となっていて、この時代もやはり国府から古川にかけての地域が飛騨の政治経済の中心地として栄えていたことを示している。 

【奈良時代後期以降の中心は高山へ】

時は移り奈良時代後期(八世紀中頃)、聖武天皇の詔で全国に国分寺、国分尼寺が建てられたが、飛騨地方では国分寺は現在地(高山市国分寺通り)に、国分尼寺は高山市岡本町にその遺構が確認されており、その頃にはすでに国府は高山盆地に移っていたと推定されている。
かくしていち早く拓けた国府・古川盆地は主役の座を高山に譲った後は、主として米作を中心とした農業生産基地としての役割を担って行くことになる。

残されている「三代実録」「延喜式神明帳」などの史料によれば、平安時代にすでに荒城神社(宮地)や渡瀬神社(広瀬)、阿多由太神社(木曾垣内)、剣緒神社(三川)の名が認められており、何れも現存するこれらの神社付近は遺跡遺品の宝庫であり出土した貴重な石器土器祭具の類や奉納される雅楽や舞など有形無形の文化財が今に伝えられている。

【果てしなきロマン】

旧石器時代から飛鳥白鳳時代に至るおよそ10,000年もの気の遠くなるような長い間、飛騨の国の中心として存在し栄え続けたきた悠久の歴史は、果てしなくロマンをかき立てるものがあり、それはまた国府町と町民の誇りでもある。

最近でも宇津江で
海具江古墳が発掘再調査され、7世紀後半築造のこの地方には珍しい「巨石方墳」であることが判明し注目されている。(平成15年夏)
稔り豊かな大地の下には、まだまだ数知れぬ未発見の遺跡が、やがて日の目を見ることを待ち望みつつ静かに眠っているのだ。

なお 国府町の古代史を飛騨地方全体の歴史や日本史と対比し時代区分別に整理した「国府町の歴史年表」を付録したので興味のある方はご覧頂きたい。


(参考文献)
○ 飛騨国府シンポジューム「飛騨―よみがえる山国の歴史」
○ 同 「飛騨の古墳時代」
○ 飛騨の国府(国府町教育委会)
○ 国府町の文化財 (国府町教育委員会)
○ 飛騨歴史散歩(加藤 薫著)
○ 岐阜県の歴史(中野効四郎著)
○ 飛騨ぶり街道物語(飛騨文化自然誌調査会)
○ わが高山(千早保之著)他 

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