安房山清峯寺と円空仏


荒城川に懸かる鶴巣橋を渡るとすぐ右手に案内看板があり、坂を登った山懐にそれとわかる堂宇が目指す「清峯寺」である。

円空上人の傑作と称せられる仏像三体が安置されていることで知られているが訪れる人は少ない。住職が亡くなって以降は住む人も無く堂宇は閉ざされて、高山の雲龍寺の管理となっていることも影響している。
境内に入ると小さな土蔵作りの建物(円空堂)がありその中に円空仏が安置されていて、「拝観希望者は麓の坂田家へ申し出よ」との案内板がある。さっそく頼んだところ、案内してくれたのは90才を越したお婆さんで、杖をつきながら鍵束を持って頼りなげに坂道を登ってきた。
しかしこのお婆さんさすがに現役、少々耳は遠いが口調は達者なもので土蔵作りの扉を開け招じ入れた後、般若心経を読み寺の歴史や円空仏について流れるように説明してくれたのである。



以下、史料やパンフレットに坂田婆さんの解説を交えて国府町の自慢 『清峯寺と円空仏』をご紹介する。(平成12年4月)

【清峯寺の沿革】
久津八幡宮(上呂)に残る清峯寺で写経されたという記述のある般若心経や、上宝白山神社に現存する「飛騨国清峯寺白山権現」と刻まれた鰐口の年号などから清峯寺の創建は鎌倉時代とされ、当時下呂の大威徳寺と並ぶ飛騨屈指の大寺院であったと伝えられている。

国府町と古川町にまたがる安房山(あんぼうやま標高1099メートル)の山中にあったと言われ、現在の清峯寺の位置からはかなり奥に入ったところである。延暦寺と関係が深く長光院や長谷院、長蔵院など多くの末寺をもっていたとされている。
飛騨国司、姉小路古川家の菩提寺でもあったが、応永18年(1411年)足利幕府軍と姉小路、広瀬連合軍との戦い(応永飛騨の乱)で焼失したと伝えられている。

現在の本堂は弘化4年(1847年)に、本尊の千手千眼観音座像をまつる観音堂は安政3年(1857年)に建立されたものである。
(写真は坂田婆さん・・・・・・平成18年に亡くなられたとの風の便り、寂念ひとしおである。)



【円空仏】
円空上人は寛永9年(1632年)美濃竹鼻に生まれ、若くして出家し天台真言の両宗を学び、中部山岳地帯を主とし各地で布教するかたわら12万体の造像に一生を捧げた。
元禄初頭飛騨入りし丹生川村千光寺にこもって布教と造像に専念し、現在飛騨には約500体の仏神像が残されている。

清峯寺に残されている仏像(県重要文化財)は、晩年に千光寺から清峯寺に移ったと伝えられている円空上人が12万体最後の造像として、精魂込めて彫り上げたものといわれ 円空独特の大胆な鉈遣いのなかに精細な彫刻が息づく、円空仏の極致とも言える見事な作品である。

特に公開されている3体の内の中央に位置する「十一面千手観世音菩薩」は、12万体の仏神像の中でもこの一体だけで、菩薩像の前に小さく彫りこまれた僧形は満願を成就した円空自身の姿であると伝えられている。

そして元禄8年(1695年)美濃国弥勒寺境内に自ら墓穴を掘り、断食して念仏結印のまま生きながらの仏となり、逍遥として63歳の生涯を閉じたといわれる。
右欄は円空堂脇に置かれた案内板の内容、ご参考までに。

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 重要文化財(昭和三十四年十一月十六日指定)

    円空作仏像(聖・千手・龍頭)

円空は江戸時代前期の僧で諸国を遍歴し、その彫刻を通して庶民の教化につとめた。かれは室町時代以後、皮相な自然観に落ち入ってきたわが国彫刻の世界に、独自の天才を発揮し、偉大な人間の力を示してきた聖者でもある。
山嶽宗教に徹した円空は、つねに山間へき地を巡礼し、人々の幸福を願い多くの仏像を彫刻して、末永く人の世をうるおしている。
したがって円空の彫刻はそれ自身個性的であり、端的に、強くまた烈しくその真髄を表現し、仏教と芸術の世界に行きぬいている。

しかし円空は、教土の文化人長谷川庄五郎にも富田礼彦にも理解されなかったが、加藤歩實の蘭亭遺稿によると、京都の画家三態思考が千光寺に来遊した際、かれの彫った立木の仁王を写し帰り、伴蒿蹊に話してその価値を認め、畸人伝に載せたといわれている。

今日ようやくその隠れた力作が各地に発見され、その芸術の高さと感動の深さが、新しく見直されてきた。

清峯寺の円空作三体は、元禄のころ清峯寺が宇寺山谷にあったころ円空上人がこの地に滞在し、桧材に一刀彫りしたものと伝え、その代表的名作ともいうべきものである。
昭和四十年には十二万六千余円を費して修理を施し、はるばる海を渡って西ドイツの博覧会へ出展されたこともある。
昭和三十四年十一月十六日、三体とも県指定の重要文化財となった。(国府町観光協会)