Y.Sugisakiの『佐伯祐三』
2003.4.1

『昨夜は楽しい時間をご一緒することが出来、有難うございました。
銀行員になって40年、ついぞ佐伯祐三を語る人にも機会なく忘れて久しくなっておりました。
突然の嬉しい一夕でした。
帰宅して本棚の奥を探してみましたところ、40年も前、私が20歳の時に、同人誌に寄稿したものを発見しました。恥ずかしながらコピーを送らせていただきます。随分と感傷的な肩に力の入った文章でびっくりします。
他人様が書いた画集や評伝の文章からかなり拝借しているように思います。
それでも、当時は真面目というか真剣だったなあと、感慨深いものがあります。
またお目にかかります。     草々』                           
まだ春浅き頃、S氏いきつけの飲み屋で傾杯のおり、私のホームページの話から必然的に飛び出した「佐伯祐三」にしばし時を忘れ語りあった。彼が学生時代から佐伯ファンであったと知り、その感性と造詣の深さに感服するとともに、佐伯祐三の世界をともに語る嬉しさを堪能したものである。
上掲はその直後に彼から届いた手紙だが、学生時代に同人誌に寄稿したという美術評論が同封されていた。展覧会の絵を通し佐伯祐三の制作の系譜を辿り、その短くも激しい生涯を端的に綴ったもので青春時代の若き感動が滲む。
以下はその内容で氏の了解を得て掲載した。
(※ 文中の作品の多くを「YUZO.SAEKI-BEST6」などに収録しておりますので拡大画でお楽しみください。)

○   ○   ○   ○

(佐伯祐三だ!! ここにある!! )
昨年(昭和34年)の五月、日本橋の白木屋で佐伯祐三作品展があった。作品は35点で数は多くはないが、今でもはっきり覚えている。
「モラン風景」「工場」「扉」「リュクサンブールの並木」「夜のノートルダム」「カフェのテラス」「広告」.......とたいへんな傑作揃いであった。入ると突き当たりの壁面に25号の「リュクサンブールの並木」を発見して僕はもうすっかり上気して「佐伯祐三だ、佐伯祐三だ、此処にある」と言ってしまった。
画面を大胆に裁断するマロニエの並木、彼が日頃慕ったガラスの破片のような鋭い描線。荒いタッチ、スピードのある筆触、生々しいほどの黄、晦渋な色調の中に色の生きた装飾的な美しさ。まさに佐伯祐三自身である。

見まわすと、極度に光を抑えた部屋の中で一つ一つの絵が重く光り、物凄かった。隣の壁面に「扉」がある。25号のキャンバス一杯に鉄の扉を描いてある。こんな何の変哲もない冷たい鉄の扉を真正面あら取り組んだ画家が、他にいたであろうか。
全力を注いで余りにも完成を急いで夭逝したこの画家は、死の直前に描いたこの硬く重い扉の向うに何を見ていたのであろうか、以前の慄えるような弱い描線はなく、太い線と量質を感じさせる静かに固く閉ざした扉、何事にも徹した彼が自分との対決の晩年の凄さを語るものである。

「カフェのテラス」「広告」.......。
彼の好んで描いたパリの下町の街頭詩である。最も佐伯らしい第二回渡仏時代の作品で、抽象化した東洋的な描線が慄え、走り、時として全身をふりしぼって絶叫するが、そんな錯綜したやぶれかぶれの格闘の中から素朴で純真なものが立ちのぼる。
「モランの寺」
そこには、もはや格闘のスリルはなく、むしろ静かな祈りがある。色は内に潜み、太い造詣がみごとな画面を築る。自分の死が見えていたのであろうか。此の連作を描くと肉体は極度に衰弱し、ある雨の振る日に路上で描いたのがもとで風邪をひき、床につくのである。此はすぐ「扉」へと続く作品である。

佐伯祐三は、最も詩人的な画家であった。佐伯祐三はセザンヌやゴッホを尊敬したし、ヴラマンクの物質感の把握に強い影響をうけたが、彼の先天的な詩情はユトリロやモヂリアニの趣味を好んだ。しかし彼の絵はユトリロでもヴラマンクでもなかった。
全く彼自身である。彼独自の芸術性は、一種の悲痛な格闘であり迫真的な陶酔である。超自我的選出、極度の緊張感を通過した精神の自由さである。死が安らぎを与えるまで、彼は休むことを知らず自己を追求した。強い意志と火花の出る情熱をもって。

(佐伯祐三の青春)
佐伯祐三が1928年(昭3)僅か三十才の若さで夭逝してから今年は32年になる。
佐伯は1898年大阪の光徳寺住職の次男として生まれた。家庭は割と裕福で、芸術的雰囲気も多少あった。府立北野中学校に入る頃から絵に興味をもち、洋画の指導をうけていた。在校時代は野球の選手で、いつも風采を構わず、野球の時も帽子をかぶらず跣足をとおしたそうである。
当時同級生だった坂本勝(前兵庫県知事)は思い出を「佐伯は気の弱い少年で、私が昆虫などを捕えると『止せ、止せ』といって止めた」「学校では『ズボ』というあだ名だった。ずぼらという意味である。
彼の動作や言葉にどことなく物ぐさそうな感じがあったので、そんなニックネームがついた。ある時夏休みの時間にグランドでキャッチボールをやっていると、佐伯は両手をズボンのポケットに入れてぼんやり立っていた。
たまにはボールが飛んで来たりすると彼は両手をポケットに入れたまま股の間でボールを曲芸のように受け止めた........」少年ながらも既に、一家の風貌をなしており、ほんとに気のいい、天真爛漫ともいうべき人柄だったようだ。それが一たびパリの裏街に立つとあの火を吐くような激しい作品を生んだのである。

北野中学を卒えると、東京に出て藤島武二にデッサンを学んだ。翌年東京美術学校に入る。佐伯は周囲の人には心から親切で、非世間的ではあったが、敵をつくらず皆から尊敬されていたという。美校当時の絵はアカデミックなものであったが、その中にも後年の神経の顴動ともいうべき感性や描線に対する敏感さはあった。美校を卒業すると既に結婚していた佐伯は妻子を伴ってフランスへ出帆。

(憧れのパリへ―第1回渡仏)
パリに着くと間もなく、グランド・ショミエールの研究所に通った。セザンヌを学ぼうとした様である。その頃パリには里見勝蔵や中山巍らがいて、佐伯を愛し色々と佐伯のために気を配った。夏、里見に連れられてオーヴェルにヴラマンクを訪ねた。
ヴラマンクにアカデミックだと怒鳴られ非常なショックを受けた。そして佐伯の絵は決定的に変化する。ヴラマンクの家から帰るとき、雨の道にたたずんだ佐伯は、里見の手をとって「有難う、すまなかった」と涙を垂れた。ヴラマンクは野獣派の画家のうちでも最も激しくアカデミズムを否定し、個性を尊重し、画家の人間的真実で表現する絵画を主張する人である。

それからの佐伯は秋から冬にかけ懸命に描いた。その頃の自画像「立てる自画像」(左)が残っているが、ヴラマンク的というより、アカデミズムから決別しようとする煩悩の物凄さである。ヴラマンクに啓発されたものは、ヴラマンク的表現形式を学ぶことではなく、学ぶことを捨てて、自己と対決することだった。
そして全く佐伯独自のものを創り出してゆく。佐伯が近作を示すと、ヴラマンクは「色が生きている」「佐伯は色彩家だ」というようになった。真実、佐伯はすばらしい色彩家だった。佐伯の作品は常にすぐれた色感がひそんでいた。表面的には暗い色調によって華やかさは抑えられていても、その底には色彩に統一した冴えがある。

このクラマールでの深い友情は、日本での「1930年協会」の結成となって結晶し、フォーヴィズムを移入し、かって印象主義を移入した画家たちが二科会を作った如く、独立美術協会へと発展して日本の洋画壇は急速に現代へ移行する。
1925年1月、彼はクラマールのアトリエからモンパルナス駅近くのリュ・ド・シャトー街にあるアトリエに移った。リュ・ド・シャトーの付近は、古くからの小さな商店街が並んでいるユトリロの好んで描いた抒情性をたたえた庶民の町で、薄汚い靴屋の職人の仕事場があり、広告塔やポスターを貼った汚い壁があった。貧乏くさいカフェ、あやしげなホテル、新聞売家があった。これらに彼は鬼気を帯びた愛着をそそぎ、血肉化していった。

その頃、欧州を旅行して、このアトリエに迎えられた兄祐正氏は記している。
「.......しかし、一番満足そうな彼の顔がこの室内にあらわれるのは、彼の一日の労働、ほんとにそれは一心不乱な一日の労働を終えてその作品を前にならべ安煙草の一服に目を細く、眉を後にそり返らせて、じっと眺める彼の姿であった。おそらくこれは彼の一番楽しい時、世界を自分のものにした時のように思われる。」と。

(帰国―再びパリへ)
この年の12月佐伯一家は、パリをあとに日本へ旅立った。日本に帰った佐伯はモティーフに難渋した。彼の住む下落合付近や田端駅構内、月島の滞船とモティーフを漁ったが、パリに居た彼の気魄は感じられず、彼自身も不満で、その焦燥は再度の渡仏のこころをかきたてた。
日本にモティーフがないというより、自分に素っ裸で対決させる切迫感、生命を賭してぶっつかる激情を沸き立たせるものが、日本の環境にはなかった。そして佐伯は逃げるようにしてシベリア経由で再度フランスへ向う。
佐伯が、ほんとに佐伯らしい強烈な自我の選出する表現に向うのは、この第二回目の渡仏時代で、代表的な傑作はほとんどこの時期に描かれている。

パリに着くと物凄い勢いで描いてゆく。五ヶ月に百七枚、六ヶ月目に百四十五枚目を描いている。筆触は―速く、自由で、東洋的描線が抽象化してゆく。看板やポスターの文字が独特の価値をもち、「カフェのテラス」「広告」「サン・ミッシェル街」「ガス灯と広告」.......が生まれる。
その頃から急に彼の制作は仕上げが速くなり、二十号を三、四時間で描き上げてしまうようになったという。そして室内で加筆することを決してしなかった。
しかし、看板やポスターなどの描線が次第に装飾的になるに従い、又新しい転機に立つ。一生の仕事を僅か三、四年で仕上げた彼には多くの転機があったが、この転機は死の直前へと進むのである。そしてモランへの旅は、田舎の風景、工場、寺院などのより構造的量感の表現へと移ってゆくのである。慄える細部は、全体の構造の中に集約され、より量的表現が目立ってくる。しかし安らぎは、死までなく、何かに追いかけられるように日に何枚も描きまくった。

(病臥...パリに死す)
佐伯はモランから帰ると、肉体の衰弱が目に見えた。そして風邪がもとで、以前弟を看病した時感染した結核が再発し病の床にふした。医者の過量の注射は「死ぬ、死ぬ」といって恐怖におびえる彼の興奮を一層あおり、発狂の一歩寸前になった。見舞いに来た友人や米子夫人が「あなたは死ぬ人ではない。絶対に死なない。」いくら言っても聞き入れなかったという。
病床に耐えられなかった佐伯は、ベットを抜け出して、ブローニュの森をさまよった。自殺しようとして家を出たともいう。或は彼の徹底した意思は、むしろ自らで命を絶とうとしたのかもしれない。森で倒れている佐伯は神経衰弱がひどかった。

八月十五日、バンサンヌの森の近くのヌイのイーゾン・デ・サンッテで佐伯死す。佐伯の霊はペールラシューズに仮埋葬された。晴れた日に彼が愛したパリを一望のうちに眺められるという。そこにはやはり結核で夭逝したモジリアニも眠っている。
佐伯祐三こそは日本の近代洋画史上。西欧の水準を抜く唯一の画家であったと信ずる。

○    ○    ○    ○


return