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30 ドナウ・ヨーロッパの旅(1)平成17年6月14日〜23日
6月14日(火)
リタイア記念の夫婦の旅で自分にとっては3回目、65歳の海外旅行に出発した。
旅慣れした妻は実に11回目、従って準備は彼女主導で、選んだツアーはJAL-PAKの「中欧4カ国10日間の旅」。キャッチフレーズは「栄華の歴史と今生まれ変わるプラハ・ウィーン・ブダペスト」。
次の海外旅行は中欧と思い定めていた憧れの旅で、2個の大きなスーツケースも重く感じられない。
名鉄西可児駅5時45分発「中部国際空港」ゆきで直接空港へ。
今回のツアーは12組24名の参加で、福岡、大阪から各1組、東京から9組、名古屋からは私達1組とのこと。出国手続を済ませ日航機で成田に向かった。ビジネスクラスのシートで“Shell flat sheet”と称するカプセル状の席に座り束の間の気分を味わう。見送ってくれるかのように雲海の上に富士山が頭を出していた。
成田に着き当初予定の搭乗口が変更されていることに気付き、何やら最初から試されているような気分。
軽く朝食をとり経由地アムステルダム行きの日航機に乗り込んだ。
今度は正真正銘のエコノミー・クラス、一列が“3−4−3席”で10年前の渡欧の時と窮屈さ加減は相変わらずだが、変わっていたのは各席に設備されたテレビ画面ぐらいのもの。
ここでツアー・メイトが全員乗り込み、添乗員(コンダクター)の樋口さん(40才位の女性)がさっそく挨拶にやってきた。
とにかくこれから9,300キロ、およそ12時間のフライトが始まるのだ。
隣の席には盛岡から参加のSさんという同年輩の夫妻が座っていてさっそく挨拶を交わす。感じのいい人達でもう女房同士はすっかり友達気分のようである。
この時のために買ってきた文庫本を読んだりテレビを見たり・・・2度の食事を交えながら嫌というほど長いフライトに耐える。日本海へ出てシベリヤを横断するコースで、時差は7時間(本当は8時間であるが現地がサマータイム期間のため)その分時計を遅らせ現地の時間に合わせる。
トイレは夫婦で10回位は通ったか・・・ようやく現地時間夕刻6時頃、予定通りアムステルダム・スキポール空港に到着した。
ここでツアー・メイトの初顔合わせ。24名の顔ぶれはかなり高齢層の夫婦連れが殆どで女性同士が2組と、前回の南欧の旅のような新婚さんや若い娘たちのグループは皆無で少々淋しい。でもいい人達ばかりのようで楽しい旅が期待できそうである。
15分も歩く長い通路を通ってプラハ行きの搭乗口へ、ここでも厳しいチェックを受けて搭乗。200人乗りくらいの中型のチェコ航空機で1時間半の飛行であったが、午後8時と言うのにまだ陽は西空に輝き北緯50度を実感する。
程なくプラハ・ルズイニェ空港に到着。
昨年EUに加盟したばかりで”ユーロ“が行き渡っていないとのことで現地通貨コルナに両替した。空港から西に16キロ、バスに乗り20分で最初のホテル「アンデルス・ホテル」に着く。明日の予定などを聞いて旅装を解いた。
このホテルはプラハ市南部の新市域(再開発地区)にあり大型商業施設等とともに2002年にオープンしたという。
白を基調とした斬新な内装でトイレ、バスルームが総ガラス張りというのには驚いた。トイレに入ろうとしてガラスドアに頭を打つ”事故“も起きたが、風呂に入って就寝したのが午前0時半でさすがに疲れた。
6月15日(水)
時差ぼけも睡眠不足も何のその5時半起床、スケッチ第一作をと意気込んでみたものの生憎の雨模様で路面が濡れている。しばらく様子を見たが状況は悪くなるばかりで諦めざるを得ず見事に出鼻を挫かれてしまった。
朝食はバイキングで当然洋食、9時にフロントに集合し市内観光に出発した。今日はプラハ城と旧市街の観光である。バスでプラハ城北側に乗りつけ正門の前へ。今日のガイドは地元のダーニヤさんというお婆さんだが、昨年のNHKの世界遺産特集番組で通訳を務めたといい独特のイントネーションはかすかに記憶がある。
一人一人にイヤホーンが配られ、離れていても説明がつぶさに聞かれ便利である。
衛兵が立つ正面入り口前の広場からのプラハ市街の眺望が素晴らしい。雨にも拘わらず大勢の観光客がつめかけていた。城内に入り聖ビート大聖堂へ、天を衝く尖塔、ゴシック様式の壮大華麗さには感嘆するのみ。写真を撮ろうとしたら有料(30コルナ=180円)と聞き驚く。・・・・が、それ程厳しくなく内緒のショットを何枚か。ミュシャ(ムハ)のステンドグラスがひときわ鮮やかであった。
次に旧王宮を参観、磨り減った木の床が年輪を感じさせる。会議室、王専用の教会、市街を一望のもとに見下ろせるテラスが印象的で、束の間「キング・オブ・ボヘミア」の気分に浸る。(写真)
降りがかなり強くなった雨の中、傘をさしての見物は難儀であったが、聖イジー修道院の前を横切り、色々な店が並ぶ「黄金の小路」を降りていく。カフカの館もあった。24名の集団は時々拡散してコンダクターを悩ませたが、一行はプラハ城を後にして市街に入りまずはたくさんの像が両側に立ち並ぶカレル橋を渡る。
ゆったりしたヴルタヴァの流れや雨に煙る両岸の景色・・・英雄、高識の像は雨に濡れる観光客を気の毒そうに見下ろしていた。人で溢れる商店街を抜け旧市街広場へ出る。ちょうど正午で旧市庁舎の時計塔ではからくり人形の演出が始まり一行を急がせたガイドの苦労が実る。
広場のヤン・フス像などを横目に狭い路地を入り昼食をとる。雨の中を一万歩以上の歩行(測っている人がいた)で腹ペコ、入ったレストランは「U CERNEHO SLUNCE」(「黒い太陽」の意で昔は紋章で家を表現していたと言う)で地下3階まで石段を降りたところにある。初めて全員の会食となり、チェコとくればビールとばかり500mlのジョッキで2杯、隣はSさん夫妻でご主人も酒はかなりいけそうだ。
レストランを出るとお買い物タイム、ツェトナ通りのボヘミアングラスの店「Celetna Crystal」へ案内され息子夫婦への土産を買う。あとはディナーまで自由時間となり私達は10人ほどで一旦ホテルへ戻り改めて出かけることにしたが、
他の人たちはコンダクターの案内でミュシャ(ムハ)美術館やヴァーツラフ広場などを観て回ったようだ。
ホテルに戻って一服、幸い雨も小やみになり近くに「モーツアルト記念館」があるというので出掛けることにした。
モーツアルトが親交のあったドウチェック夫妻の別荘「ベルトラムカ荘」に招かれ、一夜で歌劇「ドン・ジョバンニ」を作曲したというその別荘が記念館になっているのである。歩いて15分、石畳の坂道を登ると丘の斜面を利用した瀟洒な白い建物があった。
モーツアルトの楽譜やゆかりの楽器などが展示されていたが、幸いなことに今日は夕方5時からコンサートが開かれると知り、辺りの庭を散策したりコーヒーを飲んだりして待つ。記念館の一室に集まった聴衆は約40人程も居ただろうか、チケットをみると演奏は夫婦のようでヴァイオリンとチェロの二重奏、マタニティドレスの女性の美しさが際立っていた。あまり馴染みのない曲ばかりであったが、せっかく「音楽の都」に来ただけに“らしい雰囲気”を味わうことができて大満足である。(写真)
聴衆も観光客らしい人は少なく、地元の愛好家の集いと言った雰囲気で町の誇りを大切にしている人たちの様子が伺えるようであった。
ホテルに戻り着替えてディナーに出発したが、高級レストランというので男性はスーツ着用、女性もそれなりに着飾って出動した。
レストランはヴルタヴァ川沿いのスメタナ通りにある「BELLEVUE」(ベルビュー、美しい眺めの意)、川を見渡せる部屋ではなかったが窓外に雨に濡れる深緑が美しく落ち着いた雰囲気であった。飲み物は勿論本場のビールで銘柄はビルスナー・ウルゲン、メインデッシュは鴨料理で少しくどい感じであったがまずまずの味・・・・・ピアノの生演奏もあり、Sさん夫妻や陽気な女性達のグループも同じテーブルで賑やかな楽しいディナーであった。
8時近くバスで帰館、明日こそ好天を・・・と期待して就寝。
6月16日(木)
降り続いた雨から開放され青空がのぞく。スケッチ・チャンス到来と支度してホテルを出る。早朝5時半さすがに人影も少なく電車の停留所にチラホラ、見当をつけていたヴルタヴァ河畔に出て下流へ歩く。流れの近くに出ようと思ったが全て柵でガードされていて叶わず、イラースクーフ橋の橋上からレギー橋、カレル橋方面を望む位置で一枚、さらに左岸の近景をスケッチして7時半ごろに引き上げる、その頃には車が多くなり街路は通勤の人々で賑やかになっていた。
ホテルに戻り朝食を摂り、8時半に出発したが今日はドイツ国境付近の温泉保養地「カルロヴィバリ」への片道160キロのバスの旅である。
カルロヴィバリとは“カレルW世(14世紀の神聖ローマ皇帝・チェコ王)が発見した温泉“
という意味で、湧き出る温泉は薬治効果が高いとされ“飲む温泉”として知られている。世界中から観光客がやってくるチェコ随一の国際都市とも言われているという。
今日のガイドは10年前からチェコに住み着いている佐藤さんという日本の女性で、無類のビール通だそうだ。彼女の解説によればチェコのビールは麦とホップと水以外には何一つ混入しないので麦汁濃度が高く、ホップの香りが高い上にねっとりとしていて最高、ピルスナー・ウルゲンとバドワイザーが代表的な銘柄とのこと。
バスはボヘミアの大平原を北上、広大な森と畑の中にオレンジ色の屋根の集落が点在するお馴染みのヨーロッパの農村風景が展がり、廃屋でさえ絵になりそうな程自然と一体感がある。起伏に富んだ麦畑にじゃが芋畑、ホップ畑に菜の花やカラシの花の黄色、ケシの花の赤色が彩りを添える。
途中高速道路もあり快調に走って約2時間で目的地に到着した。
暑い位の快晴、テプラ川の谷合に歴史を感じさせる色とりどりの建物が並ぶ美しい温泉街があった。(写真) 小高い丘の上にはソ連占領時代の党員専用の大きな保養施設が街を見下ろすように聳え立っていて暗い時代を想像させる。
昼食予定のグランド・ホテル「プップ」(PUPP)でバスを降り川沿いの街を見物する。再三「スリに注意!」とのガイドにやや鼻白むが致し方がない。現実に話しかけてくる胡乱な輩が居た。
“飲む温泉”にふさわしくCORONADAと呼ばれる大きな施設があり、大勢の観光客が独特の容器(コップ状)で、温度に応じて設けられた栓から汲んでは旨そうに飲んでいた。自分も飲んでみたが塩気があって日本の昆布茶に似た味がした。国際的保養地にふさわしく色々な人種が来ていたが、ここでは東洋人の姿はあまり見かけなかった。
一回りしてプップホテルに戻り昼食、ビールはピルスナー・ウルゲンを注文しガイドの説明を思い浮かべながら味わう。暑い中を歩いた後のビールは実に旨い。
ここでもSさん夫妻と一緒ですっかり意気投合した。
Sさんは昭和14年生まれで自分と同じ年齢、地元の銀行に入り定年退職後10年間水産会社に単身出向し3年前にリタイア、盛岡に帰ってマンション住まいとのこと。奥さんは穏やかで品のいい面差しで会話も楽しい。同じような経歴の男同士だが持っているショルダーバッグも全く同じという奇妙な符号に苦笑い。今夜のフリー・タイムの夕食についても私達が予約したカレル橋のたもとのレストラン「マリナッツ」に同行することとなった。
昼食後妻は店頭巡り、自分はテプラ川を少し下ってスケッチを楽しむ。
午後2時45分帰路に就きホテルに到着。
一休みの後“盛装”しSさん夫妻とともにタクシーでカレル橋方面へ出発した。
レギー橋を渡った国民劇場付近で降りて川沿いに歩き、昨日は雨のため楽しめなかったカレル橋をゆっくりと堪能、大変な人出でヴルタヴァ川には何隻も遊覧船が浮かび川沿いのレストランには観光客が溢れていた。
仰ぎ見るプラハ城が夕陽に映え秀麗この上もない。互いにカメラを向け合い心おきなく楽しんだあと、出来れば入ってみようと思っていた「スメタナ記念館」はすでに閉館した後であった。
予約した「マリナッツ」に入ったのがちょうど8時、カレル橋の橋脚の下からヴルタヴァ川下流を望む絶好のテラス席がリザーブされていた。テラスの欄干には篝火が焚かれ、まだ昼の明るさが残る川面が幻想的で観光客のさざめきも遠い。(写真)
テラス席はもう満席であった。
チェコ語などさっぱりの4人、メニューに印をつけるなどオーダーに手間取ったが、まずはピルスナー・ウルゲンで乾杯、Sさん夫妻も妻もトライした甲斐があったと大満足。互いの来し方や家族のこと、海外旅行の話など話題にこと欠かず、こんなに楽しい晩餐になるとは思いもよらなかった。ようやく日が沈み暗くなった午後10時、“AAA”以外のタクシーは雲助だとのコンダクターの忠告を守り、レストランでタクシーを呼んでもらってホテルに戻った。
食事の費用はチップ(10%)を含めて合計5,630コルナ(約28,000円)、コルナとユーロ混合で払ったが心得たもので素早く計算してくれた。一人7,000円は十分に価値あるディナーであった。
明日はプラハを離れるので荷物の整理をして就寝。
6月17日(金)
プラハを去る。今日は早朝スケッチはお休み。
少し雲が多いが雨の心配はなさそう。スーツケースを運び出し朝食後8時半バスで出発した。
今日はボヘミア南部の古都「チェスキー・クルムロフ」を観光しその足でウィーンに入る予定で、バスと運転手が変わっている。途中ダボーで小憩し170キロ走って11時半目的地に到着した。
「チェスキー・クルムロフ」は13世紀後半ヴィテーク家領主が建てた城を中心にして発展した城下町で蛇行するヴルタヴァ川沿いにある。その後城は繰り返し改築されゴシック様式にルネサンス様式、バロック様式が混在するがうまく調和されている。時代に取り残された事が幸いし古いままの街がそのまま残っているのである。
燦然と輝く城の塔を中心に橙々色の屋根の大小さまざまな建造物が息づく古都は緑の森に囲まれてまさに息を呑む美しい夢の国、ドイツ・ロマンチック街道のローデンブルグを連想させる。
川幅を狭めたヴルタヴァ川の流れは美しくゴム・ボートで川下りを楽しむ若者たちの姿もあった。
坂の多い石畳の道には観光客が溢れていた。(写真)
大戦での破壊を免れることは出来なかったが、ソ連崩壊後の経済発展で修復が進み現在ではその傷跡も殆ど癒え2002年には世界遺産に登録されたのである。
昼食は穴倉のようなレストラン「GASTRO」(ガストロ)に案内された。
相変わらずボリュウムたっぷりの料理にやや食傷気味で食べきれず残す人も多かったが、席に通りかかった巨腹の観光客が「何故残すの?」と冗談半分に問いかけてきた。余計なお世話というものである。
昼食をはさんで約3時間の観光はかなりの忙しさであったが、それでもせっせと店を覗く妻に付き合いポーチと宝箱ふうの小物入れを記念に買った。
ここでチェコ通貨を使い切って、午後2時半バスに戻りウィーンを目指す。
程なくオーストリア国境に到着したが、EU加盟の恩恵でパスポートのチェックも無く入国審査はバス1台5分で終了しあっという間に入国した。リンツで高速道路に入り途中ドライブインで土産物を少し買う。
残る130キロはコンダクターのウィーンに関する「講義」を聞きながらの旅であった。
ハプスブルグ王朝の盛衰、そして東西強国の狭間で命脈をつないできたオーストリアではあるが、ウィーン市街に入って車窓から見る重厚で圧倒的な建物の街並には、かつてヨーロッパ世界に君臨した栄光の面影を偲ぶことが出来る。
夕刻6時少し前にウィーンの宿ヒルトン・ホテル・プラザに到着した。場所は「リング」(かっての城壁の跡に造られた環状道路の愛称)の北の一角で、日本大使館や証券取引所に隣接し市の中心部へ約1キロの至便なところである。ホテルはプラハの現代風ホテルとは異なり格調が高くウィーンでも最高級ホテルとされている。
夕食はホテル内の「ラ・スカラ」で魚が主体のメニューは食傷気味の胃袋が喜ぶ。
料理が冷めないように食器が暖められていた。五人の席にSさん夫妻にコンダクターが加わる幸運で、明日の自由時間の過ごし方やウィーンの事情などをいろいろ聞くことができた。食事後付近を散策しようと思っていたが時計は10時半をまわっていてそのまま部屋に戻り就寝。
6月18日(土)
ツアーも半ばにさしかかり今日一日はウィーンに遊ぶ。
午前5時半早朝スケッチを敢行、ホテルを出てドナウ運河の方へ足を運ぶ。土曜日の早朝で運河沿いの空き地には胡乱な人影がたむろしており危険と見て水辺は諦める。さらに歩いて地下鉄の駅付近に題材を求めた。時折人通りもあり、いざという時には助けを求められる場所である。曇空から今にも降り出しそうな暗い土曜日の印象で約1時間半描いて引き揚げた。
地図を便りの心細さはあるが“来た道を戻る”の鉄則を守る。
朝食後9時バスでウィーン市内見物に出かける。「リング」をゆっくりと走って名所旧跡を窓外に観るのみ、なにしろウィーンを一日で観光しようというのだから大変である。 時折ジョークを飛ばしながらの楽しいガイドで、ウィーン大学、市庁舎、国会議事堂、自然史博物館、美術史博物館、新王宮などの外観を見ながら市立公園で下車、金色の「ヨハン・シュトラウス像」の前へ案内される。何故?と思ったがここは訪れる観光客に人気の記念写真スポットだそうで、私たちも順番待ちの列に並んだ。
そして再び乗車し本日の目玉「シェーンブルン宮殿」へ向かった。
地下鉄4号線沿いに走って15分ハプスブルグ家650年の繁栄の象徴シェーンブルン宮殿に着いた。(写真)
独特のテレジアン・イエローに彩られた広壮な宮殿が両手を広げるかのように迎える。敷地が広大で正面門から宮殿まで100メートルは悠にある。さっそく宮殿内を観賞したがここでもイヤホーンが威力を発揮し、ガイドの案内で歴代当主の肖像画や歴史的な場面の絵画などをエピソードを交えながらの解説で楽しませてくれた。
“美しい泉”シェーンブルンの16世紀創建時からマリヤ・テレジアの時代(18世紀)、強国に翻弄される19世紀〜20世紀、そして1916年の崩壊までまさに世界史を辿る感じであった。
時間の都合で宮殿の背後に広がる美しい庭園を見ることができなかったのは残念だが、この宮殿が王家の夏の別荘(離宮)であったところにその強大な力を感じる。
鑑賞中に驟雨があったようだが、外に出る頃にはすっかり晴れ上がって青空が拡がっていた。
正午過ぎ宮殿を後にして、市中心部のオペラ座近くまで戻って自由時間となる。ウィーンの行程はわずか一日なので各自思い思いに過ごさせようとの苦肉の策か。
私達夫婦は二つの目標を定めた。
@はヨーロッパの三大美術館の一つと称される「ウィーン美術史美術館」観賞、Aは中心商店街ケルントナー通り(歩行者天国)の買い物行脚。
まずは腹ごしらえとオペラ座近くのかつての城壁が残されている広場で、旨いと評判のフードスタンドに立ちソーセイジをかじる。
美術史美術館は前に妻が訪れているので勝手がわかっていて効率的に廻る。建物は「自然史博物館」と一対となっている旧王宮の一部で中央にマリア・テレジア像が高々とあたりを睥睨していた。
美術館にはブリューゲルの「バベルの塔」や「雪中の狩人」、レンブラントの「自画像」、ラファエロの「聖母子」など世界の名画が展示されていた。ハプスブルグ家の所蔵品が主体とみられここでもその力の大きさを感じる。「美術館巡り」がライフワークの自分としてはこの旅での面目をようやく果たした想いであったが、何しろ次の目的が控えているのでゆっくりできずケルントナー通りへ急ぐ。
土曜日とあって買い物客や観光客でごった返す街中を気侭な妻の買い物行脚に難儀な付き合いをさせられることになる。あちらこちらと店を覗くがなかなか気に入ったものが見つからない。次第に疲れも溜まりイライラも嵩じて結局何も買わず、シュテファン大聖堂を拝観してホテルに戻った。
妻の買い物に付き合うには並大抵の忍耐では済まないことはわかっていても、財布(クレジットカード)代わりに付き合わされる羽目になったことを悔いる。
午後5時45分、”一流レストランでのディナーとコンサート”というので気を取り直し”盛装“してバスに乗った。
リング東南部の市立公園近くのレストラン「DANIEL」で、2002年に天皇皇后両陛下が王宮の晩餐会で召し上がったというフルコース・メニューをオーストリアの有名な陶器「アウガルテン」の食器で食べるという企画である。
狭いレストランに詰め込まれた感じで雰囲気はやや期待はずれであったが、ろうそくの灯る食卓に並ぶ食器、出される料理はこのツアーでは最高とのことで確かに美味しかった。
因みにそのメニューは、前菜が舌平目のフィレとザリガニのグリル、トマトスープ、メイン・ディッシュが牛肉のフィレとポテト野菜添え、デザートはパフェ・・・・。
食事が済むと再びバスに乗ってシェーンブルン宮殿に向かう。 真っ青に晴れた空には夕陽が残り街並みの美しさを更に際立たせていた。
オフ・シーズンとはいえウィーンに来てクラシック音楽は外せない。その片鱗だけでもと組み込まれたコンサートで会場は宮殿内の「オランジェリー・コンサートホール」。縦長のホールは観光客で満員、我等はA席で前の方から3分の1位に位置した席に座る。 オーケストラは18人編成のその名も「シェーブルン宮殿オーケストラ」、オペラ歌手やダンサーが入って彩を添える。前半がモーツアルトの曲、後半がヨハン・シュトラウスの曲というプログラムで「美しき青きドナウ」「ウィンナー・ワルツ」などお馴染みの曲にウィーンの雰囲気を味わう。アンコールに応えての「ラデツキー行進曲」はニューイヤー・コンサート並みの手拍子の盛り上がりであった。(写真)
蛇足ながらオランジェリー・ホールは、もともとは宮殿の南国産植物栽培温室の一部として建造されたもので冬場の貯蔵場所としてだけでなく社交ダンス場としても使用されたという。
休憩時間に庭園に出ると中天の月が明るく、気温、湿度とも最適で実に爽やかである。
10時半コンサートも終わりホテルへの帰途に就いたが、週末の夜ライトアップされた市庁舎やシュテファン大聖堂などその佇まいは誠に幻想的であった。
(続)
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