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30  ドナウ・ヨーロッパの旅(2)

平成17年7月14日〜23日


6月19日(日)
たった一日のウィーンを離れる日。
早朝5時半シュテファン大聖堂付近まで歩いてスケッチ5枚目への挑戦である。 スケッチする場所を選んだ途端に、バタバタと逃げる男を追いかける若い女二人の怒声・・・・・少々ひるんだが度胸を決めてスケッチに集中した。約1時間半で描き上げホテルへ戻る。
ハンガリーから迎えに来たバスに乗り、スーツケースも積みこんで8時45分ホテルを出発。ドナウ川の乗船場(TENPOLD)に向かう。天候は薄曇りまずは雨の心配はいらない。
乗船場で出国手続後、水中翼船に乗り込み9時半“出港”して、ドナウ川を下りスロヴァキアの首都ブラティスラバに向かった。

ドナウ川は広いところで200メートルはあろうか、雄大な流れであるが水は濁っていて「美しき青きドナウ」とは程遠い。しばらくして巨大な水門があり水面格差の調整が行なわれた。水門で遮断して中の水を排出し船体を徐々に低下させるスエズやパナマ運河と同じ方式で、20分もかかったろうか約8メートルの落差を調整して再び川面に出る。
両岸には小さな小屋が点在して休日を楽しむ人影があり、国境近くでは城塞や砦の廃墟が姿を現し旅情を誘う。順調な“ドナウの船旅”を終えて国境に接する首都ブラティスラバに到着した。
スロヴァキアは1993年1月チェコと分離独立した農業国で、まだ後進性が強いと予想していたが少なくとも首都の顔は観光客の目を惹き付けるに十分な魅力を備えていた。入国手続後陸路回送されたバスに乗り、ハンガリー人のガイド、カタリーナさんの流暢な日本語の説明に耳を傾けながら市内を観光する。(写真)

まず王宮へ、13世紀に創建され、オスマン・トルコに攻め込まれた15,6世紀ごろには首都ブダペストの代役も果たしたというこの王宮は、その歴史を物語る美術品や工芸品を展示した博物館になっている。ローマ法王から授けられハンガリー王に代々受け継がれてきた王冠の精巧なレプリカが展示されていた。本物はブダペストの国会議事堂に収められているという。王宮からの眺めは広々としていたが、ソ連占領時代の無機質な灰色のアパート群は興ざめで、無味乾燥の共産主義社会を象徴する思いがけない光景であった。また王宮敷地内の戴冠教会尖塔の頂点には重さ300キロ、使われた金塊が7キロという王冠が飾られていてこの街のシンボルとなっている。
旧市街に戻り徹底破壊を免れた美しい街を歩く。コーヒー店の呼び込みに雇われたボケ老人や工事人夫を装った痴漢男の銅像、注意標識などが路上にあって、ユーモアを忘れぬ街のゆとりが感じられ楽しくなった。

昼食はホテル・ドナウ(DANUBE)のレストランで、この頃にはすっかり晴れ上がり今日も気持ちのいい日和になっていた。
午後2時10分バスに再び乗り第4の訪問国ハンガリーに向け出発した。
ドナウのスロヴァキア側の岸に近い道路を走る。ハンガリー大平原の真っ只中、右にドナウ川、左に広大な畑と森が広がる豊かな土壌の農村地帯を2時間ほど走ると国境の町、ハンガリー建国の地ともされる「エステルゴム」に着いた。
国境はドナウ川の中央で、スロヴァキアがEUに未加盟のためマリア・アレリヤ橋の手前で出入国審査が行なわれた。バスに乗り込んできたスロヴァキアの警官(男)とハンガリー側の係官(女)が座席を廻ってパスポートを検閲するという簡便なもの、カメラを向けたら注意されたが最後尾にいた利点を活かして内緒のワンショット。
この街にはスズキやキャノンが進出しており数十人の日本人が住んでいるという。
余談ながらかつてこの街はドナウ川をはさんで一つの美しい街であったが、今はハンガリー側にある大聖堂の正面は国境を越えて反対側のスロヴァキア側に行かないと見えないという第二次大戦の悲しい置き土産の舞台となっている。

再びハンガリー大平原を今度は左にドナウ川を見ながら東へ向かう。流れの方向を南に変える「ドナウベント」と云われる辺りのベシュグラード要塞を見物した。5時を廻っていたため内部には入れなかったが眼下に流れるドナウの眺望は悠々として実に雄大であった。この辺りはハンガリー唯一の山と森と川に恵まれた景勝地でブダペスト市民の週末の別荘地ともなっている。別荘と言っても小さな畑小屋といった風情で週末にやってきて畑仕事や庭で汗を流す市民が多いという。
ブラティスラバから約200キロのバスの旅で、午後7時に最後の訪問国ハンガリーの首都ブダペストに到着した。世界遺産の「王宮の丘」の中にある最高級ホテル「ヒルトン・ブダペスト」に入る。すぐ隣にはあのマーチャーシュ教会が聳えていた。

夕食はオプションとなっていて希望者14〜5人が集まりコンダクターの案内で新装開店10日目という近くの高級レストラン「KIKALY」(キライ)へ出掛けた。この地方独特の楽器チンバロ(チェンバロに似ている)とヴァイオリンなどの弦楽四重奏とハンガリアン・ダンスが賑やかに宴を盛り上げていた。記念にオリジナルCD(Puka Karoly & his band とあった)を20ユーロで買う。
来客は私達以外に東洋人は見当たらず、服装を改めたヨーロッパ人が他の席を占めていて、それなりのステイタスを表わしているようであった。 食事を終えた後「漁夫の砦」に行きペスト地区の夜景を楽しむ。ドナウに架かる4つの橋やライトアップされた教会などの建物が美しかった。
11時近くホテルに戻る。ホテル建築時に発掘されたという13世紀のドミンゴ修道院の遺跡をそのままテラスの一部に取り込み、ホテル自体も王宮の丘に相応しい外装になっていて、室内の設備や調度品も最高でうるさい妻もさすがに大満足の様子であった。

6月20日(月)
5時半にホテルを出ての早朝スケッチは王宮の丘北辺のウィーン門を出たところで振り返っての景色。
今日も快晴で朝陽がまぶしく建造物の美しさを際立たせていた。道端に腰をおろして約1時間半、我ながら上出来の収穫を抱えてホテルに戻る。その頃になってようやく散歩する人影がチラホラと見えだした。
午前9時バスでペスト地区の観光に出発した。
丘を降りてドナウに架かる鎖橋を渡って市街地に入る。古い石造りの建物が並ぶ旧市街地でまずはアンドラーシ大通り(世界遺産)を通って英雄広場へ行く。中心に建国1,000年を記念して立てられた高さ35メートルの記念碑が聳える。その頂点には右手に王冠、左手に二重の十字架(ハンガリーの紋章)を捧げる天使ガブリエルの像がある。その下に建国の王マジャール族の首長アルバートを中心に7人の部族長、さらに左右の台座には「仕事」「戦争」「自由」「学問」を象徴する4つの像が配置されていて広場を圧する威容である。戦没者を弔う箱状の碑が横たえられ、訪れる外国の首長らが花束を捧げる場所となっている。(写真)
両側には二つの美術館があり、この広場はかつて万博会場にもなったという。

次に聖イシュトバーン大聖堂を訪れる。二度の大戦で荒廃したがようやく修復がなり輝きを取り戻した見事な威容に包まれる。
その後はバスで街を見て回ったが、あえて薄汚いアパートが立ち並ぶ通りも見せてくれた。壁面には生々しい大戦の弾痕が残り当時の状況を想像させるもので、街の外観を著しく損なっているが再び悲劇を繰り返さないという意志を示しているのか。ソ連占領時代の仕打ちを非難しているようにも見える。
街路樹はアカシアが多く当地独特の黄色い花をつけていたが今年は天候不順で季節はずれの遅咲きとのことであった。
王宮の丘に戻り大戦の記念碑とされる弾痕生々しい旧防衛庁の建物や、王宮と周辺の劇場や大統領府など外観を見物、王宮そのものは現在美術館になっているという。
次にマーチャーシュ教会の内部を拝観、昼の漁夫の砦を再訪してドナウとペスト地区の眺望を楽しむ。 そして近くのハンガリー特産品を扱う刺繍協同組合直営免税店を案内してくれたところで解散自由時間となった。

私達はそこで刺繍やパブリカ、フォアグラなど特産品を土産に大量に買い込む。
ホテルに戻り希望者は路線バスでオペラ座を見学に行くというので参加、1時半に出掛けた。妻はついでに有名なヘレンドの陶器を買おうとの魂胆である。乗ったバスは16番の循環路線バス、終点(始点)エルジェーベ広場で下車、徒歩で10分くらいのところを道を間違えて30分近くかかってしまうヘマをやった が、どうにか3時の見学時間に間に合い約45分間オペラ座内部を見物した。
貴賓席や休憩サロンを見たり観覧席に座ってみたり・・・・・ミラノのオペラ座を見たことがあるがどこも似たり寄ったりである。
その後一行と別れた私達はヘレンドの店へ行きコーヒーカップを一脚今回の旅の記念に買う。
昼食抜きで歩き回ったのでさすがに疲れ、軽食を摂ろうと思ったがハンガリー通貨の持ち合わせがなくユーロの使える店を捜す。ようやく大きなパブ・レストラン「NYUGTA」を見つけて入る。
なかなか言葉が通じずそのうえ席がそれぞれ係員の持ち場になっていて、オーダーから清算まで特定の係員によらねばならない。何という非効率と立腹してみてもこれが旅というもので国情を理解することが大切と自分に言い聞かせる。その後少し近くの店を見て回り帰りの路線バスに乗る。
始発停留所に停車中のバスに運転手は不在、乗客は勝手に切符をチェック機に差し込んで出発を待つ。降車時もノーチェックでかなりいい加減なものである。

ホテルに戻り夜は申し込んでおいたオプショナル・ツアー「ディナー・クルーズ」に参加、24名中16名の応募であった。
午後7時バスで出発、まず王宮の丘のレストランでシシーことエリザベート皇后ゆかりの「ゲルボー・ハウス」で夕食。ハイクラスのレストランというのでスーツ着用で出かけたがそれ程でもない。魚の白身(コボス)のメインディッシュはなかなかの味であった。
そして川下の船着場で遊覧船に乗る。
舳先の方のデッキに座り涼しい川風と夢のような夜景を楽しんだ。ライトアップされた王宮の丘、4本の橋、ペスト地区の教会などの煌き・・・雲ひとつ無く青紫色に染まる空には満月が浮かぶという思いがけない光景を目にする。気温もまさに最適の涼しさ。まだ辛うじて写真が撮れる明るさで夢中でシャッターを切りまくる。後で取捨選択すればいいデジタルカメラの利点である。この頃になってすっかり仲間感覚になったメイト達と、「ドナウの真珠」と呼ばれるにふさわしい見事な夜景を語りながら帰ったが、今度の旅を象徴する誠に印象的なディナー・クルーズであった。(写真)

6月21日(火)
晴れの日が続き今日もせっせと早朝スケッチに出掛ける。
王宮の丘の中を歩いたが結局ホテル近くまで戻り「三位一体広場」で好点を見つけて約1時間半のスケッチ。散歩に出てきたSさん夫妻が声をかけてきた。バス・ストップ近くで早朝出勤の市民がチラホラやってくるが皆素知らぬ顔で通り過ぎるので助かる。どこからか可愛いダックスフンドが覗きにやってきた。
朝食後、T/C(ユーロ)の換金にホテルに隣接する銀行に行ったが取り扱えないと断られてしまう。予定が狂ったが持ち合わせの円やユーロ現金でオプショナル・ツアー代金などを支払った。買い取ってもT/Cを換金する仕組みが面倒なのか、まだまだ不自由な面が多い。

9時15分ロビーに集合し30キロの郊外にある「ゲデレー宮殿」観光に出発した。
ガイドは引続きカタリーナさん。
この宮殿は別名「シシー宮殿」と呼ばれるほどフランツ・ヨーゼフ皇帝の妃エリザベート(愛称シシー)が愛用した宮殿で、ハンガリーをこよなく愛し民衆から敬愛された彼女の足跡が鮮明である。
およそ250年前に創建され、フランツ・ヨーゼフ皇帝により19世紀半ばにバロック様式により改築されたが、第二次大戦で敗れソ連軍の占領下で荒廃してしまった。社会主義のくびきからようやく開放された1990年代以降修復工事が始まったが現在もなお進行中である。
宮殿内には戦後散逸した絵画や調度品を集めて博物館として展示公開しており特にエリザベートゆかりの品々が多かった。
奥に広がる庭に出てみると未修復の部分が無残な姿を曝している。(写真)
戦争で破壊された上ソ連軍の兵舎として使われたため、壁は剥げ落ち窓には下品な緑色の板戸が打ち付けられて見るに耐えぬ荒れ放題、民族の伝統や文化を徹底的に否定する不毛の共産主義思想に改めて憎悪を感じる光景であった。

宮殿を出た後近くの牧場へ行く。
ハンガリーの誇る馬術の世界チャンピオン兄弟が経営するという馬牧場で、民族衣装をまとい巧みな鞭捌きで馬を操る曲馬を見せてくれた。ドイツ生まれのエリザベート皇后は森や馬が大好きだったようで、この辺りの森に馬を走らせたとの話も残っている。曲馬の最後にシシーに見立てた美しい女性が白いブラウスに赤いスカートという華麗な出で立ちで横座りの馬術を披露し喝采を浴びていた。 その後馬車に乗って広い農場を一周、森をわたる爽やかな風と空に浮かぶ白い夏雲が印象的でハンガリーの6月の想い出として心に残る風景であった。
昼食は牧場のレストランで予想通りボリュウムたっぷりの肉料理。パブリカのたっぷり入ったグヤーシャ(肉と野菜の煮込み)は評判どおりの美味しさで、ワインの本場ハンガリーの特選銘柄トカイの貴腐ワインを飲みながら爽快な野趣を楽しむ。
4時頃ホテルに戻り、農場での埃と汗を洗い流して、スケッチに手を入れたりうたた寝をしたり開放感たっぷりの3時間余を過ごした。

7時15分、カラーシャツに新調したネクタイを締めスーツを着込んで最後の晩餐に臨む。妻も最後のおめかしに念を入れている。場所は市民公園近くにあるブダペスト随一と評判のレストラン「GUNDEL」(グンデル)である。
グンデルのネオンサインと店員の丁重な出迎えを受け、鈴懸の木が繁りノウゼンカズラ(凌霄花)の真っ赤な花が咲く庭に囲まれたレストランに入る。残念ながら庭に面したテラスの席ではなかったが、ちょうど手頃な広さの二階の一部屋が用意されていた。
因みにメニューは
(前 菜) フォアグラのパテ、トースト添え
(スープ) オックステイルスープ シェリー風味
(メイン) オーブン焼き子牛肉、マッシュルーム・ソース、温野菜とポテト添え
(デザート)グンデル特製デザート“グンデル・パラチンケン”くるみ入りクレープ+チョコレート・ソース
(ワイン) トカイ貴腐ワイン“トカイアヌー白ワイン”
注文ワインは“GERRE(ゲレ)赤ワイン2000年もの”で隣にワイン通の人がいて助かる。 さすがに全て一級の美味しさ、食卓を囲んだメンバーも楽しくピアノの生演奏をバックに会話も弾んで最後の晩餐に相応しい宴となった。名残を惜しみつつ終宴を迎える。
パリ延泊の二組4人の別れの挨拶もあり、いよいよこのツアーも終わりかと実感した。
ホテルに戻り明日の出発に備えスーツ・ケースの荷造りを終えて就寝、時計は既に12時を廻っていた。

6月22日(水)

天候にも恵まれ順調な旅を続けてきたが、いよいよ今日が最終日。やや雲は多いが暑くなりそうな気配で勿論早朝スケッチは最後のチャンスとばかり4時半張り切ってホテルを出る。今回の旅ではヴルタヴァ川とドナウ川の景色は是非描きたいと考えていたのでドナウ川辺に降りることにした。
途中道に迷ったりしたが、ドナウ右岸の岸壁から鎖橋を望む場所に座り込んでスケッチを始める。埠頭には数隻の船が舫っていて絶好のモチーフ、好調に筆が進み7時ごろに切り上げてホテルに戻った。
荷物をまとめ朝食の後、円を少しフォリントに換えて午後の出発時間までのフリータイムをSさん夫妻と楽しむことにした。

10時ホテルを出て路線バスに乗り、ディアーク・テール駅からヨーロッパ最古の地下鉄といわれる1号線に乗り換え英雄広場の芸術美術館に行く。スペインを中心とした絵画と古代ギリシャの遺物の展示がセールス・ポイントで、ゴヤ、グレコ、ルーベンスらの代表的な絵画に印象派以降の一室もあり見応えがあった。帰りも同じルートでホテルに戻ったが、地下鉄の利用は初めてで戸惑う。
地下への入り口を降りるともうホームに出てしまい、ホームに切符売り場があってそこで切符を買う。降りるときには切符は回収されない。そこで帰るとき使用済みの切符を所持していたので、そのまま電車に乗ったところ、どこからか検札官が現れ切符を見せると使用済みの切符とわかって約5倍の罰金を払う羽目になってしまった。
ルーズと侮っての横着をとがめられた形で何とも後味の悪い仕儀となったが、まあこれも経験と自らを慰めて王宮の丘へ戻る。あとは女房同士、亭主同士で残された時間を楽しむ。我等は喫茶店でビールとソーセージで空腹を癒したが、例えば国会議事堂へ行くなどもう少しましな時間の過ごし方があったのではと後になって少々悔やむ。

そして午後3時ホテルをバスで出発、20キロ約30分程走ってブダペスト空港に到着。(写真は名残のブタペスト、国会議事堂の上に真珠のようなアドバルーンが浮かぶ・・・ホテルから)
出国手続もスムーズに行なわれハンガリー航空機でフランクフルト経由日航機に乗り継いで成田に向かう長い帰途に就いた。
フランクフルト空港では娘への土産を買う。
相変わらず狭い座席であったが隣が空席の幸運もあり疲れが溜まっていたのかぐっすり眠って往路ほど時間が苦にならなかった。腕時計の時差を修正すると日本時間は23日、午後3時半予定通り成田空港に到着した。
国際線乗り継ぎで中部国際空港へ向かう私達はここでメイト達と別れの挨拶を交わした。特に色々とお世話になったSさん夫妻には懇ろに御礼を述べ写真の交換を約束する。束の間の仲間であったが何時の日か再会する折があるかもしれないと期待を寄せながら名残を惜しむ。
18時15分発の日航機で中部国際空港へ、二つのスーツケースともども無事到着、重い荷物を引きずりながら名鉄御嵩行き急行に乗り自宅へ戻った。
10日間の旅も無事終了し自宅も娘も無事であった。

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【中欧4カ国10日間の旅総括】
完全リタイアを記念しての今回の海外旅行は、ツアーメイトにも恵まれ全くトラブルもなく誠に楽しい旅であった。また親しくお付き合いいただいたSさん夫妻との交友もあってツアーが一層楽しいものになったのである。
天候はプラハの初日こそ雨に祟られたが、以降は概ね快晴続きで観光の魅力は倍加し夢のような素晴らしい日々。ホテルも食事も全て水準以上で後になるほどグレードが上がっていく仕組みは、高い満足感を与えてくれた。
日程的にはウィーンの実質1日の観光に不満が残り、10日間と限られているならプラハかブダペストから1日振り向けたらどうかという気もする。
しかしプラハもブダペストも魅力一杯で、特に「ドナウの真珠」とも云われるブダペストは予想以上に素晴らしかったことを思えばやむをえないのかも知れない。
フリータイムが比較的多く適当であったが、プラハの最終日の美術史博物館観賞の後とブタペストの最終日の時間の使い方には少々無駄があった気もする。事前の調査が不足していたようだ。 また日が長く移動が少ないせいで朝がゆったりとしていて、早朝スケッチには誠に好都合で8泊中6回実行できたのは望外の収穫、早朝の単独行動でリスクは感じたが何ごともなく幸運であった。

ツアーのキャッチフレーズは「栄華の歴史と今生まれ変わるプラハ・ウィーン・ブタペスト」。
僅か15年前までは旧ソ連の圧政下で呻吟していたのだが、ようやく社会主義のくびきから解き放たれ自由経済の下で生まれ変わりどこまで活力を取り戻しているか興味深く見てきた。ドイツに隣接し工業化が進んでいるチェコはともかくとしてスロバキアやハンガリーは農業主体でまだまだ途上にある感が強く、僅かに垣間見た街の風情の中にも、社会主義体制に馴らされた習慣から脱しきれていないものを感じた。交通機関や銀行、飲食店などの対応をみても総じて意識改革が進んでいないようであった。半世紀に及ぶ破壊と圧制の傷跡の深さを改めて実感したものである。
“旅の先輩”として何かと文句の多い妻も今回はさすがに満足気であった。
ただ、プラハ、ウィ−ンとくればクラシック音楽は外せず、事前にインターネットで調べるなど秘かにねらっていたようだが両市ともシーズンの狭間で大きな催しもなくいささか心残りのようである。
定番の美術館めぐりはフリータイムに2箇所著名な美術館を観賞できまずまず、妻の体調も“旅に出れば吹っ飛ぶ”ようで腰痛も気にならなかったようだ。
さて、撮りまくった写真が580枚、Sさんが送ってくれたものを含めると実に600枚のアルバム造りが待っている。それにスケッチを油絵にする楽しいワークも控えていて当分旅の余韻に浸る毎日が続くことになる。(旅を何倍にも楽しむ裏技・・・・か)
写真はプラハ城正面にて睦まじく・・・・・?
(了)