我がふるさとの廃家

2001.8.17

一本の街道から分かれた横丁を誰が名付けたか「パッパ横丁」と呼ぶ。

その端の小学校と中学校に挟まれた国府町広瀬町字塚腰(通称「学校の前」)に私の実家がある。JR高山線「ひだ国府」駅まで歩いて5分、バス停まではもっと近く当地としては至便な場所である。

余談ながら字名「塚腰」の由来は現在小学校の校庭となっている位置に直径80m高さ9mという飛騨でも最古最大級の規模を持った大円墳「亀塚古墳」があった事に拠るのではないかと思われる。
5世紀半ばのものといわれるこの貴重な古代遺跡は不幸にも大正7年に小学校運動場拡張工事で掘り崩されてしまったが、多数の副葬品が発掘されたそうである。(右の写真は工事の模様と古墳の大きさを伝える貴重な資料である。国府町教育委員会蔵)

(櫛の歯の抜けるように)
昭和33年春、私が名古屋へ就職して家を出るまでは、この家には両親と姉妹3人それに私の計6人が賑やかに住んでいたが、翌々年姉が同じ町内に嫁ぎ、昭和44年上の妹が名古屋へ嫁いで櫛の歯が抜けるように急に淋しくなる。そして昭和49年夏父が他界し、さらに昭和55年、下の妹が嫁いでとうとう母一人がガランとした家に取り残されることになった。
淋しいけれども周囲の暖かい人たちに励まされて、気ままな一人暮らしをしていた母も昭和63年元旦に亡くなり、以降現在に至る13年間全くの空家となったままである。

それでも実家恋しさに年に2、3度やって来る妹達をやさしく迎えてくれてはいるが、さすがに住むものが居なくなって13年も経つとあちらこちらと風雪に荒らされ、今ではただ痛々しく老残の姿をさらすばかりとなっている。
軋む表戸を開けて一歩中に入ると、家具も調度も昔のままで澱んだ空気の中にかすかな父母の息遣いが聞こえてくるようだ。

(尽きぬ想い出)
そもそもこの家は、父が母と所帯を持つ少し前に実家(丹生川村三之瀬)から納屋を一棟譲ってもらい建て直したもので、天井は低く床の間や仏間などおよそ日本家屋らしい間取りは何も無い。屋根は石を置いたくれ葺きの屋根で雨が降れば雨漏りの心配が付きまとったものだが、戦後しばらくして瓦に葺き替えたもののこれが大失敗。コンクリート製の重い瓦で柱が耐え切れず家の裏に太いツッカイ棒をあてがい凌いでいた記憶がある。結局トタン板で葺き替えなおして今日に至っているという次第で、今でもその瓦の残骸が家の周りに積んである。

当時の家の周囲は、土埃の通りに面し他は田圃に囲まれていて、蛙の声が賑やかになる頃には、家の入り口の周りには真っ赤なツルバラが咲き乱れてご近所の名物になっていたものである。また筋向いの学校のグランドから飛んでくる野球のボールでガラス戸を割られることもしばしばで、怒った父は家の前面をスッポリと金網で覆ってしまうという笑えない場面もあったりした。

急な階段を上った二階には二間あるが納屋造りのため床板がそのまま一階の天井になっていて、歩くとギシギシ鳴るばかりか時には埃が落ちてくるといった調子で、夜ともなると鼠の走り回る音で安眠を破られる。こんな具合だからお勝手や風呂、便所も極めてお粗末なもので、おまけに井戸水も鉄分を含んで使い物にならず母が随分苦労していたし、我ら子供達も毎日水汲みの重労働を強いられたものである。
それでもようやく上水道が引かれて、水廻りの設備も改められたのであるが、何と言っても洗い場のある風呂が出現したのはこの家にとっては「一大革命」であった。

楽しい想い出もある。
年の瀬も迫る頃、父と近くの雪山へ花餅用の枝をとりに行き、家族みんなで餅を搗き、形よく整えられた枝に餅を巻き飾りをつける花餅作りを手伝ったものだが、出来上がった豪華な「花餅」を入り口正面に飾りつけ正月を迎えるトキメキが懐かしい。年に一度の「塩ぶり」のご馳走に揃って囲炉裏を囲んだ大晦日もほのぼのとした暖かい想い出である。


名古屋へ就職した私は昭和40年に妻帯したが、一応長男であるということもあって結婚式はこの家で行った。心意気は良かったのだが床の間も無く板壁をカーテンで隠したような部屋での粗末な結婚式で、名古屋生まれの妻は近くの親戚で借りた花嫁衣裳に着替え心細げにご両親に伴われて嫁入りしてきた情景を覚えている。一生一度の晴れ舞台というのに、貧しい時代であったとはいえ妻やご両親には誠に申し訳ないことであったと、今でもこの家に帰って来る度に悔悟の念にかられるのである。
新婚初夜は二階の部屋で、しかも新郎は深夜まで酒を付き合わされるという「悪しき田舎の習慣」に基づく所業は、今もって妻から怨嗟の眼差しで見られる「生涯の汚点」となっている。
この家をめぐる私の想い出は果てしない.....。

昭和9年納屋一棟を財産分け替わりに貰って出てきた父が、母と所帯を持ち裸一貫で始めた戦前の雑貨屋稼業から、戦後の慣れぬ百姓仕事と母の手内職(和裁)で糊口を凌ぎ子供を育てた、厳しい生活の舞台がまさにこの家なのである。まさか新築の納屋を譲る訳もないから、この家の年齢は少なくとも70才以上であることは間違いない。
思えばよくぞ頑張ったものと感に堪えないが柱や建具の隙間も年々広がっているようで、これ以上放置もならず取り壊す日も近づいてきている。

(いよいよ.........)
先日帰郷の折に家の内外の状態をカメラに収めスケッチを一枚描いたが(上掲)、いざ壊すとなると妙に愛着を覚え、長年の風雪に耐え家族を護ってきたペンキの剥げた屋根や白チャケた柱や板壁が無性にいとおしくなってくるのである。まだそのままになっている母の名前の表札さえ「壊さないでくれ」と訴えかけているようで切なくなってくる。
薄暗い物置には籾俵を積んだ大八車や懐かしい農機具類が収まっている筈であり、両親が愛用した家具類も壊してしまうには忍びなく願わくば欲しい人があれば是非譲りたいと思っている。
また、皆で近いうちに家の中を整理し父母の思い出の品を残しておこうと思う。
おそらく記憶にある父の農事日記がギッシリ書きこまれた手帳や母の内職の手控えなど、厳しく貧しい時代を生き抜いた両親の「証」がどこかに眠っている筈である。
両親の汗と涙の結晶であるこの家を、継ぐものもなくいたずらに朽ち行くままに放置してきた親不孝者の、せめてもの償いの行為として認めてくれるだろうか。

※ 平成14年(2002年)10月取壊し工事を行い現在空き地となっている。

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