写真は五月雨に濡れる今村峠頂上付近と地蔵堂



司馬遼太郎の『街道を行く』(飛騨紀行編)にこんなくだりがある。
「.....私どもは神岡町から道を越中(富山県)の方向にとった。この街道は随分古い歴史をもっていて、今も「越中東街道」とよばれている。道は渓流に沿って.....」

残念ながら古く江戸時代中期頃からこの街道で運ばれてきた富山の「塩ぶり」について触れられていない。
飛騨地方では今でも正月に「塩ぶり」を食べる習慣が残っているが、別名『飛騨ぶり街道』とも呼ばれるこの雪の峠道を「塩ぶり」を背負って歩いていたボッカ(歩荷ー荷物を担いで運ぶ人)の習俗を織り込んだら、もっと素敵な道中記になったろうにといささか物足りない。

この街道は、鉄道(高山線)が全線開通する昭和9年(1934年)頃までの、飛騨と越中を結ぶ唯一の物流手段であり物流ルートであった。
幼い頃の記憶の中に、雪の舞う年の瀬のころ何か幸せを運んできてくれるような「ボッカ」の言葉の響きが懐かしく蘇るのだ。
飛騨から越中へ抜ける古道は、宮川沿いと高原川沿いの東西2本が拓かれ、国府町上広瀬地区(追分)で分岐している。
特に利用度が増した江戸中期以降の道筋はあらまし次のとおりである。(右地図参照)

@ 越中東街道(東大路とも言う)
高山ー上広瀬(今村峠)ー八日町(大坂峠/十三墓峠)ー巣山ー山田ー寺村ー船津(神岡)ー東漆山ー東茂住ー横山ー荒田口ー東猪谷


A 越中西街道(下山中道とも言う)
高山ー広瀬ー古川ー野口ー大無雁ー三河原(文道寺峠)ー打保ー杉原ー小豆沢ー蟹寺ー猪谷

 @ 今村峠(今峠)


(「飛騨の国府」歴史編より抜粋。)
越中への北飛騨の街道は国府(上広瀬ー追分)で分かれていた。
追分から今村峠へ向かう東街道の口もとには江戸時代の道標がある。
高さ80センチあまりの自然石に「右 ふなつ道 左 古川道」の字が刻まれている。(右の写真 "ふなつ"とは現在の神岡町)
またこの道を少し行くと洞の口にも道標がある。高さ1メートルほどの角型の石を使って「従 高山二り」と書かれている。2里塚の一つである。
当時この道を旅する人々はこれらの道標を見て、船津(今の神岡町)を通り富山の方へと、わらじ姿で峠を登っていったのであろう。

今村峠は追分から今村に通じる大事な峠で今洞峠とも言われている。
峠のてっぺんに立つとまっすぐ安国寺、右手に荒城神社の森、左の方には綺麗な荒城川の流れと遥か古川町を眺めることも出来る。
峠の頂上の地蔵堂には次の歌が掲げられ、憩う人々にしばし昔を偲ばせる。

  『行き来する人も稀なる今峠 昔を語れ峰の松風』  淵上早苗

峠を越えて往来する人々は上広瀬側の追分や今村の峠の口で茶屋で休んだり宿で泊まることもあった。人通りは明治の頃が多かったと聞く。

 A 街道(今村峠)を行く

晩秋の朝霧がたちこめる午前8時、車で上広瀬に向かう。
「飛騨ぶり街道」とも称せられている越中東街道は上広瀬で西街道と分かれいきなり今村峠を越えることになる。この辺りが「追分(老和気)」とも呼ばれている所以であろう。
上広瀬の加茂神社脇で車を降りて登り始めた。道端に「飛騨ぶり街道 今村峠まで1.2km」との小さな標識が立っていた。
峠道は途中まで舗装してあり、さらに頂上に向けて工事中であった。草深い石畳の道を想像していたので少々ガッカリさせられる。舗装が切れると落ち葉を敷きつめたような道が伸びている。峠付近にさしかかってもなだらかな道が続き、思ったより道幅が広くやさしい峠道であった。.......(平成13年11月)
ところが、後でわかったのだが実はこの道は「林道」で今村峠の道ではなかったのである。舗装が切れる辺りに「右 今村峠0.6km 左 林道」の標識があったのだが、工事中の車両で遮られ見落としてしまったらしい。

そこで猶予はならじと小雨そぼ降る5月の休日、再踏査を試みることにした。
本物の今村峠はやはり厳しい。道幅は狭く勾配が急で少し登るだけで息が切れる。30分も登ったろうか峠の頂上に着くと、そこには地誌のとおり立派な地蔵堂があり、傍らにこの峠道が船津(神岡町)と高山を結ぶ最短ルートであったことや、飛騨ぶり街道の由来を表わす案内板が立てられていた。さらに頂上付近の高台に登ると三川から高山方面への雄大な眺望がひらけていた。
峠を越えると今村方面に降りていくのだが、雪の降り積もった細い杣道のような峠を重い塩鰤を背負ったボッカが歩く.....そんな情景を想い浮かべながら登ってきた道を降りて行った。
現在は国道41号線となっている西街道との分岐地点(追分)では、江戸時代のものといわれる苔むした道標(写真)を見つけることもできた。(平成14年5月)


B 飛騨ぶりの由来

「飛騨ぶり」の呼称は、遠く富山湾から塩漬けにして飛騨経由で信濃に運ばれる鰤のことを称している。
その長い道程と越中東街道について『飛騨ーよみがえる山国の歴史』から、 桐原 健氏の「ブリのくる道」の一部を紹介させて頂く。


一年に一回、年の暮れになると中央アルプスの谷間よりマレビトの山苞(ヤマズト)(注1)ともいうべき”年取り魚”が入ってきます。
年取り魚は北信はサケですが中、南信はブリでそれが飛騨からもたらされてくるので、『飛騨鰤』といいます。
海のない飛騨から何故ブリが来るのかなどと疑問にも思わず、ただ何もわからないながらも、慌しい年の暮れに飛騨という国に想いをチラと通わす.....こんな記憶を持っているのは私達の年代が最後になりましょう。
.......
先史時代の信濃と飛騨の文化交流を考える場合、飛騨鰤のたどる道は重要です。
この飛騨鰤の道筋を確認しておきたいと思います。

富山湾氷見で水揚げされたブリは数日(二日半)かけて塩ブリに加工され、富山経由で神通川に沿って南に向かい高原川との合流点から飛騨に入ります。

高山まで32里で"二つの峠"(注2)を越します。通しで2泊3日、中継ぎだと7日かかるということです。ここからいわゆる飛騨鰤となりボッカ(歩荷)によって雪が降っていれば一日3里、晴れなら 6里の早さで美女峠、野麦峠経由で信州へ送られていくわけですが.....(写真は高山市公設地方卸市場での塩ぶり市)

ブリの輸送が始まったのは加賀藩の市場統制が緩んでしまった寛文年間頃(1670年頃)といわれているので、すでに300年余の歴史があるわけですが、この道を縄文早期押型文土器の時代に遡らせてみたいと思います。」

(以下概略  古川盆地沢遺跡や松本平高出遺跡などから発見された縄文早期押型文土器に含まれている黒鉛は飛騨北部から富山県南部及び石川県にかけての飛騨変成岩地帯でしか存在せず、遠く縄文時代よりこの道が物資の輸送に使われていたと推定される。)

(注1) 飛騨地方からやってくる客(まろうど)の持参する山里の土産の意
(注2) "二つの峠"とは、宮川沿いに遡る越中西街道には峠のような道筋は無く、東街道の大坂峠(十三墓峠)と今村峠ではないかと思われる。




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