(「飛騨の国府」歴史編より抜粋。)
越中への北飛騨の街道は国府(上広瀬ー追分)で分かれていた。
追分から今村峠へ向かう東街道の口もとには江戸時代の道標がある。
高さ80センチあまりの自然石に
「右 ふなつ道 左 古川道」の字が刻まれている。(右の写真 "ふなつ"とは現在の神岡町)
またこの道を少し行くと洞の口にも道標がある。高さ1メートルほどの角型の石を使って
「従 高山二り」と書かれている。2里塚の一つである。
当時この道を旅する人々はこれらの道標を見て、船津(今の神岡町)を通り富山の方へと、わらじ姿で峠を登っていったのであろう。
今村峠は追分から今村に通じる大事な峠で今洞峠とも言われている。
峠のてっぺんに立つとまっすぐ安国寺、右手に荒城神社の森、左の方には綺麗な荒城川の流れと遥か古川町を眺めることも出来る。
峠の頂上の地蔵堂には次の歌が掲げられ、憩う人々にしばし昔を偲ばせる。
『行き来する人も稀なる今峠 昔を語れ峰の松風』 淵上早苗
峠を越えて往来する人々は上広瀬側の追分や今村の峠の口で茶屋で休んだり宿で泊まることもあった。人通りは明治の頃が多かったと聞く。
A 街道(今村峠)を行く
晩秋の朝霧がたちこめる午前8時、車で上広瀬に向かう。
「飛騨ぶり街道」とも称せられている越中東街道は上広瀬で西街道と分かれいきなり今村峠を越えることになる。この辺りが「追分(老和気)」とも呼ばれている所以であろう。
上広瀬の加茂神社脇で車を降りて登り始めた。道端に「飛騨ぶり街道 今村峠まで1.2km」との小さな標識が立っていた。
峠道は途中まで舗装してあり、さらに頂上に向けて工事中であった。草深い石畳の道を想像していたので少々ガッカリさせられる。舗装が切れると落ち葉を敷きつめたような道が伸びている。峠付近にさしかかってもなだらかな道が続き、思ったより道幅が広くやさしい峠道であった。.......(平成13年11月)
ところが、後でわかったのだが実はこの道は「林道」で今村峠の道ではなかったのである。舗装が切れる辺りに「右 今村峠0.6km 左 林道」の標識があったのだが、工事中の車両で遮られ見落としてしまったらしい。
そこで猶予はならじと小雨そぼ降る5月の休日、再踏査を試みることにした。
本物の今村峠はやはり厳しい。道幅は狭く勾配が急で少し登るだけで息が切れる。30分も登ったろうか峠の頂上に着くと、そこには地誌のとおり立派な地蔵堂があり、傍らにこの峠道が船津(神岡町)と高山を結ぶ最短ルートであったことや、飛騨ぶり街道の由来を表わす案内板が立てられていた。さらに頂上付近の高台に登ると三川から高山方面への雄大な眺望がひらけていた。
峠を越えると今村方面に降りていくのだが、雪の降り積もった細い杣道のような峠を重い塩鰤を背負ったボッカが歩く.....そんな情景を想い浮かべながら登ってきた道を降りて行った。
現在は国道41号線となっている西街道との分岐地点(追分)では、江戸時代のものといわれる苔むした道標(写真)を見つけることもできた。(平成14年5月)