年 代 |
年令 |
年 譜 |
主 要 作 品 |
時 代 背 景 |
1898 |
4月28日大阪府西成郡中津村大字光立寺六番屋敷(現在大阪市北区中津二丁目5番4号)、光徳寺13代住職、父祐哲、母タキ(のち八重野と改名)の四男三女の次男として生まれる 幼名は秀丸 |
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1911 |
13 |
中津壽常高等小学校壽常科を卒業、中学校受験に失敗し高等科に進学 |
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1912 |
14 |
高等科1年を終了後、大阪府立北野中学校(現府立北野高校)に入学(坂本 勝と5年間同級) |
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1915 |
17 |
北野中学校4年生頃から油絵を描き始め赤松麟作塾(梅田)に通う |
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1917 |
19 |
北野中学校を卒業(席次は87人中76番) |
「自画像」 |
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1918 |
20 |
東京美術学校西洋画科予備科に山田とともに入学、大阪出身の木下勝治郎を知る |
「御宿の海」 |
第1次世界大戦終結 |
1919 |
21 |
妻となる池田米子(銀座象牙商の娘)と知り合う |
「紀州勝浦の海」 |
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1920 |
22 |
9月父祐哲死去 11月池田米子と結婚、落合村での下宿住まいから、同村にアトリエつきの家を新築し入居(現在、新宿区中落合二丁目4−22 新宿区立佐伯公園) |
国際連盟成立 |
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1921 |
23 |
弟祐明結核で死去、家作りに興味を持ち木下勝治郎らの助力で増築 |
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1922 |
24 |
長女彌智子出生、渡欧に関心を持ち椎名其二、マリー夫人にフランス語を習う |
「帽子をかぶる自画像」 |
ソヴィエト社会主義共和国連邦成立 |
1923 |
25 |
東京美術学校西洋画科卒業、同級生等と卒業後の発表グループとして「薔薇門社」を結成し第一回展 |
「自画像」「裸婦」「パレットを持つ自画像」 |
関東大震災 |
1924 |
26 |
1月パリ着、3月パリ郊外のクラマールに移住 |
「ノートル・ダム」「パリ郊外風景」「立てる自画像」 |
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1925 |
27 |
6月兄祐正を迎えにマルセイユへ、アヴィニヨン、アルルなどゴッホの足跡を追う |
「エッフェル塔の見える通り」「リュ・デュ・シャトーの歩道」「ノートル・ダム(マント・ラ・ジョリ)」「壁」「コルドヌリ(靴屋)」「煉瓦屋」「村役場」「アネモネ」「人形」 |
東京放送局、ラジオ放送開始 |
1926 |
28 |
3月帰国、光徳寺に帰る。 |
「滞船」「蟹」「肥後橋風景」「下落合風景」 |
クロード・モネ没 |
1927 |
29 |
第2回1930年協会展開催、8月再び一家でパリに向かう 10月プールヴァール・デュ・モンパルナスに落ち着く |
「リュクサンブール公園」「広告塔」「新聞屋」「ガス燈と広告」「カフェ・レストラン」「鐘楼のある風景」 |
金融恐慌起こる |
1928 |
30 |
2月山口、荻須らとパリ郊外モランへ写生旅行 |
「サン・タンヌ教会」「パンテオン」「一軒の家」「モラン風景」「モランの寺」「煉瓦焼」「扉」「黄色いレストラン」「郵便配達夫」「ロシアの少女」 |
日本で初の普通選挙 |