光徳寺
中津学園正門
佐伯家累代の墓
佐伯祐三生誕碑
光徳寺本堂
旧光徳寺本堂
新大阪駅から地下鉄御堂筋線に乗り換え中津駅で下車、西へ500mも歩いた所に富島神社がある。隣にある筈の佐伯祐三の生家「光徳寺」は、それらしい雰囲気もなく雑多な建物の間にある門柱がそれと知れる程度の表札を掲げていた。 三枚の表札には「宗教法人光徳寺」「社会福祉法人光徳寺善隣館中津学園」「佐伯」と書かれていた。 中に入れてもらうと正面にガラス張りの三階建ての学園があり、右手に目指す「光徳寺」があったが、小さな梵鐘が僅かにお寺であることを示しているような、およそお寺らしくない建物であった。 かつての広大な寺域は望むべくもないとしても、由緒ある名刹と聞いていたので少なからず落胆した。 白いつつじの植え込みの中に、「佐伯祐三生誕の地」の石碑がありようやく確信したものである。 奥へ歩を進めるとそこは予想通り墓地であった。 狭められたスペースはぎっしりと墓石で埋めつくされていた。学園の先生に祐三父娘の眠るお墓は何処かと尋ねたら、墓地のすぐ入り口のところにある「倶會一處」と彫りこまれた円柱形の墓石が佐伯家累代の墓であると教えられた。 佐伯祐三の短くも純真懸命な生き様を想い瞑目合掌し、時の移ろいを感じながら光徳寺を辞した。因みに 祐三の戒名は「巌精院釈祐三」彌智子は「明星院釈尼祐智」である。(平成14年初夏) |
『房崎山光徳寺縁起』 寺歴縁起によると、本願寺十一世顕如法主の直弟子となった佐伯祐西による開山は天正8年(1580年)2月造営とある。 佐伯祐三の育った建物は十世の祐教の時代天保十年代(1840年頃)の建築と推定され築後60年の光徳寺が祐三の育った環境であった。 その光徳寺は、第二次大戦終戦間際の6月1日に戦災で全焼し、戦後もとの位置に再建され中津学園が新設されて現在に至っている。 かつて佐伯祐三の育った時代、1万坪ともいわれる寺域を持ち淀川べりまで続く茶畑、梅林、竹薮、春には菜の花が咲くたんぼに囲まれた本堂(写真)、庫裡、鐘楼、太鼓楼といった広壮なおもかげは、現在の光徳寺からは全く想像できない。 (朝日晃著「永遠の画家佐伯祐三」より) |