「熱情の巴里 佐伯祐三展」
(山本發次郎コレクション)
2004.12.11
12月というのにセーターにブレザーでは汗ばむくらいの小春日和、朝8時に家を発ち、新大阪駅に降り立ったのが10時を少し廻った頃で随分便利なったものと改めて思う。
「熱情の巴里 佐伯祐三展」が開かれている大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室は地下鉄御堂筋線心斎橋駅の近くですぐに見つかった。(写真)
出光ナガホリビルの13階(旧出光美術館)にあった。開催期間が明日迄でしかも土曜日とあって多くのファンが詰め掛けるだろうと思っていたが、11時開場の時にはすでに5、60人は待っていただろうか。
大阪市に寄贈された実業家山本發次郎(1887〜1951)のコレクションが中心、展示されている53点の内42点と大半を占め佐伯祐三の代表作が数多く含まれている。
まさに佐伯祐三のパトロンであったかと思えるほどの素晴らしいコレクションで、佐伯祐三がパリで燃焼しつくした時期の珠玉の作品ばかり・・・・・祐三ファンならずとも必見の美術展である。

会場に入ると見慣れた佐伯祐三の絵が溢れていた。
制作年代順に展示されていたが、表面にニスが施されているのだろうか、どの絵も画集など からは想像もつかない艶やかで生々しい迫力を持っている。
力強い筆の運びと奔放な描写に祐三の胸の鼓動が聞こえてきそうだ。
この生で見る迫力こそ祐三の真骨頂なのだと改めて確かめながら一枚一枚を食い入るように観賞する。
ブラマンクに怒鳴られ失意の中で描いたとされている「立てる自画像」は顔の部分を乱暴に削った痕が生々しく見るに耐えない気持ちになる。
何年か前に出張の折に大阪府立北野高校(祐三の母校)まで足を運び見せて欲しいと頼み込んだが体よく断られた「ノートルダム(マント・ラ・ジョリ)」が出展されていて、まるで恋人にでも逢ったような気分になった。
2回目の渡欧で描き始めたやたらに文字や描線が躍るレストラン・シリーズの代表作「レストラン・オデル・デュ・マルシェ」、「村と丘」(モラン)では寒風に吹き飛ばされてきた枯れ木の小枝が絵の具と一緒に描きこまれていると言われていたが、本当にそうであり触ってみたい衝動にかられた。
戸外での最後の作品といわれ、親友の山田新一に「扉」とともにこれだけは手放さないでくれと懇願したという「黄色いレストラン」、不治の病床にあって死力を出し尽くして描いた「ロシアの少女」や「郵便配達人」などなど・・・・・実物に接する感激は筆舌に尽くし難い。
絵のほかにライフマスク(生前に採った顔形石膏)や米子夫人や親友らと交わした書簡などが展示されていた。
四部屋ばかりの狭い展示室であったが、人目も構わず何回も行ったり来たりしながらたっぷりと堪能した。
ミュージアム・ショップで画集やグッズを買い込む「祐三おたく」を演じつつ会場を後にしたが、この特別展が開かれていると教えてくれた杉崎吉孝氏に心から感謝したい。
しばしの興奮に初冬の空気が誠に爽やかであった。

ところで山本發次郎コレクションの寄贈を機に持ち上がった大阪市立近代美術館建設計画、何時のことかと関心を持っていたが、用地は中之島四丁目の市立科学館近くに確保してあるものの、ご他聞に洩れず財政難で建設の見通しが立っていないとか。当面この心斎橋展示室が代役となるというが何とも歯がゆくもの足りない。
あの世で山本發次郎も同じ思いでいるに違いない。
それにしてもこんな素晴らしいコレクション(山發コレクションと俗称される)を残し、惜しげもなく大阪市に寄贈した山本發次郎なる人物とは一体いかなる人物であろうか。
佐伯祐三が現在の評価を得ている要因のかなりの部分はこの人物が担っているといっても過言ではない。
独特の審美眼で祐三の代表作を集め公開し戦火からも守り通して今日に伝えた功績は大きく、彼の存在が無かりせば祐三の真実のどれほどが残されていただろうかと思う。

以下は買い求めた画集に記載された山本發次郎に関する記事を抜粋要約したものである。

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「大蒐集家山本發次郎」(橋爪節也記)より
明治20年(1887)岡山県北房町に地主の三男として生まれた。東京高商(現一ツ橋大学)を卒業して鐘淵紡績に入社、大正3年(1914)ごろ大阪の茶の貿易商山本家に婿入りした。
大正9年(1920)に二代目山本發次郎を継いで且R發商店を設立、貿易と染毛料の製造を始め業容を拡大、戦災後も復興を軌道に乗せつつあった昭和26年(1951)64歳で没した。
發次郎が芸術を好んだ背景には実父の影響や次兄の感化もあったようで昭和4(1929)〜5年頃から蒐集が本格化した。
蒐集の中核をなすのが「書」で慈雲や白隠など江戸時代の高僧の墨蹟の所蔵家として有名であった。
發次郎は芸術家の個性を尊重し造形性そのものに価値をおく芸術観を掲げ、研ぎ澄まされた審美眼を持った“眼”の人間と言える。この「書」における新しいタイプの蒐集家の鋭い“眼”が洋画蒐集家に先行して佐伯祐三の発見を可能にした。
發次郎によれば佐伯祐三の蒐集は昭和7,8年(1932)〜11,12年頃とされ、佐伯祐三の死後4〜5年を経過した頃にあたる。
その出会いの時の印象を次のように書き残している。(原文のまま)

「私は五六年前まで佐伯祐三の名さへ知らず、作品も見たことがなかったのです。 そのころ画商がいろいろの絵を持ち込んで来ていましたがどうも気に入るのがないをりから、或る日吉田といふ人が、その知り合ひの工臣といふ、大阪で有名な額縁屋から入れ智慧されたとかで、見せてくれたのが抑々の始めでした。
それが何と「煉瓦焼」(写真)と「カッフェーと広告」と「サクレ・キヨール」との三枚でした。皆佐伯の傑作中のものでした。
この時のことは今でも歴々とよく覚えてをりますが、後から思へば人と人との契合の深い因縁が、この瞬間から起きたといふのでしょうか、胸に動悸打つ異様な感じで、長い間我を忘れて眺め入ったようなことでした。
それ以来、ただもう有頂天になって、手の届く限り熱心に蒐めにかかりました。恰も前世からの約束ごとでもあるかの如く、スルスルと、最早多分その代表的なものは殆ど集まりつくしたかと思ひます。」


さらに次のように結んでいる。
「私は自ら揣(ハカ)らず、この運命的な天才自然児佐伯祐三の、殊に彼が死を急いだが如く、一枚々々に熾烈な生命の一片づつを刻み込めた、晩年の作品の殆ど全部を蒐め得て、既に漸く年月と共に忘れ去られんとする彼の画業を茲に確保し、永遠に彼の芸術を世に問う任務を擔(ニナ)った事を、身に余る誉れと感じ、何だか此の世に生を享けた甲斐の、人一人前の務めの一つを果し得た気持さへするのであります。」
(昭和12年(1937)刊行の「山本發次郎所蔵佐伯祐三画集」巻頭「佐伯祐三遺作蒐集について」より)


こうした熱烈の思いの籠もった言葉を読む時、山發コレクションの寄贈は即物的な意味での美術品、財産の寄贈ではなく、「永遠の文化事業」という崇高な理念と使命感、何よりも精神そのものの寄贈であったと考えたくなるのである。
山發コレクションは昭和58年、遺志を継いだ山本清雄氏により大阪市に寄贈された。
(※ 出会いとなった作品「カッフェーと広告」は焼失した「広告とテラス」(1927)、「サクレ・キヨール」は「サクレ・クール」(1924)ではないかと想像している。)

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実業家の美術品蒐集や美術館建設など は得てして会社の宣伝用のアクセサリーとして行われることが多いが、山本發次郎のように芸術への畏敬と作品への愛情に発した使命感にかられての蒐集は誠に稀であると言っていい。「美術蒐集は永遠の文化事業」との持論を堅持し信念として語るこの大阪商人に見出された佐伯祐三は稀代の幸運児であったと言えるのかも知れない。  

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