愛と感動の画家「中村 彝の全貌」展

画家として歩み始めた佐伯祐三に大きな影響を与えた画家

2004.1.10

昨年暮れの忘年会の帰途、地下鉄栄駅で一枚のポスターとその全面を飾る見覚えのある絵が酔眼に飛び込む。
かの佐伯祐三が美術学校在学中に大きな影響を受けたといわれる「エロシェンコ氏の像」で、愛知県美術館の新春企画「中村彝(つね)美術展」のポスターであった。

朝日晃著「佐伯裕三のパリ」によれば、佐伯祐三の画家としての出発点といわれる1922年(24歳)の作品「帽子をかぶる自画像」では、中村彝の「帽子をかぶる自画像」(1910年)を通してレンブラントの光と影を習得し、また東京美術学校卒業制作の「自画像」(1923年)では「エロシェンコ氏の像」(1920年)を通してルノワールの色調と筆触を学んだという。(写真参照)
また親友山田新一はその著「素顔の佐伯祐三」で、「・・・その過程を見て、これから本当の出発点に立つ暗い怖れのようなものが静かに始動するように感じた。」と述べている。
「エロシェンコ氏の像」
中村 彝  1920年
「自画像」
佐伯祐三 1923年
中村彝は1924年37歳で病死するまで約8年間下落合のアトリエに住んでいた。佐伯祐三との直接の面識は無かったようであるが、佐伯祐三が画家として第一歩を踏み出す重要な時期に多大な影響を与えたキーパーソンであったのである。

中村彝は1887年(明治20年)水戸の士族の家に生まれ軍人を目指したが、若くして結核に罹り画家の道を志した。当時の洋画家が等しく憧れたレンブラントや、ルノワール、セザンヌなど印象派の巨匠たちの作品に傾倒、その思想や技法を学びながら独自の境地を拓き鋭く内面を表現する数々の傑作を生んだ。
代表的な作品として1916年の「田中館博士の肖像」、1920年の「エロシェンコ氏の像」が有名である。特に「エロシェンコ氏の像」は殆ど単彩に近い色調の中にモデルである盲目のロシア詩人の内面を描き切った油彩肖像画の最高傑作と評価されている。国の重要文化財に指定されているほどである。この絵は同年の第2回院展に出品されているが、その年の佐伯祐三は22歳で米子夫人と結婚し落合村にアトリエを新築して移り住んでいた。
しかしこの頃から中村彝の病いよいよ篤くなる。
最後の力をふりしぼるようにやせ衰えた病床の自画像や死を意識した凄惨な絵を描く。そして1924年37歳の若さでついに帰らぬ人となった。
恋に身を焼くこともあったが不治の病をもつ身故に生涯妻を娶ることはなかった。

若き佐伯祐三を魅了したこの画家の、宿病とともにひたむきに生き描き続けた短い生涯を辿るこの企画は佐伯祐三フアンとしても見逃せない美術展である。
そして出かけた土曜日の午後、解説文を読みながらじっくりと鑑賞してきた。佐伯祐三との関係がふれられていないか、展示されている写真に写っていないものかと注意して見たがやはりその影は発見できなかった。
それにしても出品作品中に自画像が多いことにびっくり、若い頃から瀕死の病床に至る最後までその数はスケッチも含めると20点は下らない。厳しく自己を見つめるその一枚一枚にはまるで時を惜しむかのような双眸が観る者に静かな感動を与える。
佐伯祐三にも通じるものがあるが、燃え尽きる日の近いことを自覚し全身全霊を傾けて絵筆を執る凄絶さには深く心を打たれる。

明治から大正にかけて花開いた日本の洋画壇にはこのように一瞬の花火のような輝きを残して急ぐように去った個性豊かな天才画家達がいたのである。

(了)

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