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101  入 院 記(その2)
平成29年11月20日〜21日



(11月20日)
とんでもないハプニング、平凡な一日になる筈が大変な一日になった。
午後2時かかりつけの名古屋の病院へ、今日の待合室は3〜4人程で空いていた。
いつも通りの問診と血圧を測り処方箋を貰って帰る心算だったが、先生からこの頃の体調を問われた時、2週間程前ジムでエアロ・バイクでのトレーニング中急に息苦しくなったことがありその後も散歩などの歩行時に胸苦しさを覚えることが多くなっていることを打ち明けると即座に先生は検査を指示、否応なしに血液検査、レントゲン撮影、心電図、画像診断(MRI)と一連の検査行程に入った。
そして結果の評価に移ったが血液検査で見逃せないシグナルが出ているという。
「心筋トロポリン(+)」・・・・・
血管の詰まりなどで心臓に大きな負荷がかかっているために心房の組織細胞が血液中に溶け出している危険な現象を示しているとのことであった。先生は直ちに緊急入院、手術が必要と決断し救急車を呼ぶという思いもかけぬ事態に発展したのである。

あまりの急展開についていけなかったが、先生の判断の的確さは重々承知しておりこうなったら従う他なしと心を決める。それにしても救急車を呼ぶとは大袈裟なと訝しがると、先生は迅速な検査と緊急治療を行う場合は「転院搬送」の一手と涼しい顔。
幸い待合室には客は無く、相棒(妻)に電話を入れ事の次第を告げ詳しくは先生からの連絡を待つように伝える。仰天の様子だったが致し方もない。
午後4時半サイレンの音が聞こえ程なく救急隊員が駈けこんでくる。
手際よくストレッチャーに乗せられて夕暮れの冷たい風が吹く街路へ・・・・・幸い人影も疎らで好奇の目に曝されることもなく車内に運び上げられた。救急隊員に声をかけられながらサイレンを鳴らし続けて国立病院名古屋医療センターへ。看護師が一人手荷物を持って付き添ってくれていた。

救急救命センターの専用入り口には青緑色のユニホームの医師数人と看護師が待ち受ける物々しさである。救急治療室に運び込まれ、ベッドに寝かされたまま衣服を脱がされ患者用の衣類に着替えさせられる。
そしてまず採血から始まりレントゲン撮影、心電図の検査が始まった。
たまたま貸金庫から出した大事な書類が入った鞄がどう扱われるのか心配だが、こうなってはお任せするしかない。 検査が終わり治療方針が決まったようで担当医から簡単な説明の後「心臓カテーテル治療」を行う旨告げられ同意書にサインした。

【心臓カテーテル治療】
足の付け根または手首、肘(自分の場合は右手首)の血管から管(シース)を挿入、そこからカテーテルを心臓に挿入して造影剤を注入。冠動脈の状態を評価し治療可能であれば狭窄、閉塞場所にX線透視化でバルーンを送り込み血管を拡張して血流を回復するという治療法。バルーンは回収する。バルーンだけでは十分な拡張が得られない場合は直径3ミリ程のステントと呼ばれる網目状の金属の筒を入れる。自分の場合冠動脈に一か所適用したとのこと。「経皮的冠動脈形成術」というのが正式な呼称である。

されるがままの時は過ぎ6時半頃であったと思う。
狭い手術用ベッドに移されてHCU(重症患者集中治療室)に運び込まれた。
医師2人看護師2人に囲まれているようだが定かではない。画像診断用のディスプレイが覆いかぶさるように並んで、まるでテレビドラマ「ドクターX」の手術室である。手首の局所麻酔なので仰向けで首が動かせる範囲は観察できるが、さすがに手術の手許は見せてくれない。医師の漏らす独り言や器具を扱う音が何とも気味が悪い。
下半身はパンツまで脱がされてスッポンポンのようでまさにまな板の鯉、何のためかよく分からぬが愛おしき我が息子が邪険に扱われるのはいかにも悔しい。しかし如何ともし難い。
途中で発せられる医師の言葉が気になったり、胸苦しさが増したり、一体どうなることかと不安を感じながらも我慢を重ねようやく終了した。
時計を確認するとちょうど8時を廻ったところ、1時間15分程の手術であったが随分長く感じられたものである。
通常のベッドに戻されてそのまま入院することに。
担当医から「早く手当してよかった。放っておくと危険な状態であった。明朝もう一度血液検査を行い結果が良ければ即日退院できる。」と告げられる。

今宵の宿は救急救命センター付きの301号室、何かあれば直ちに処置できる集中治療室も近い。取りあえずの暫定入院用で整理棚もなければテレビ・ラジオもない。医療ベッドと配管、配線の類の他は衣類などの箱が一つ置かれているのみ。4人用の部屋(というよりコーナー)で他に2人の老人が寝ていたが、いずれも心臓疾患の患者のようであった。下着や洗面道具などを持ってきた相棒が入院手続きを済ませて待っていたが、心ここに非ずといった感じでショックの大きさが見てとれ可哀そうな気がする。
運び込まれている手荷物が全部そろっていることを確認。大事な鞄は相棒に持って帰ってもらうことにし、財布や携帯電話などは枕元に置いて寝ることにした。
左腕には血液サラサラ用など二本の点滴が行われ、右手首には止血用の腕輪がはめられ圧力監視用の指輪がセットされている。さらに腕には血圧測定器、胸には4か所に心電図用の端子が張り付けられている。寝返りも出来ない状態で管やコードだらけのベッドに縛り付けられ、トイレにも立てないので尿瓶で用を足す始末・・・・・わが生涯終焉の舞台もかくあるかと些か気味が悪い。
9時頃になって相棒も帰り24時間監視体制のもとに消灯されて就寝時間を迎えた。まだ胸苦しさは消えず寝返りでもしようならどこかの管が外れウォーニング・ランプが点滅し警音が鳴る。すると看護師が飛んでくるといった具合である。
こんな時気紛れのミニ・ラジオでもあればと思うが後悔先に立たず。
2時間おきに看護師が見回り尿瓶の始末をしてくれるが、申し訳なく頻尿傾向の身が何とも恨めしい。悶々の時が過ぎ4時頃になってようやく胸苦しさも取れてきたようで暫しの眠りに就くことができた。

(11月21日)
朝食前に採血が行われ8時に朝食、ご飯にソーセージ2本、野菜の煮付けに牛乳1パックの簡単なもので、昨日の昼食以来断食状態の身には何を食べても美味しく完食。まだベッドから離れられず再び手持無沙汰の時間が始まる。
程なく担当医がやって来て血液検査の結果は良好とのことで今日の退院が告げられホッと一安心。相棒には担当医から経過説明を兼ね連絡するとのことであったが、一刻も早く知らせてやろうとさっそく携帯電話をかけると明るい声が帰って来た。 今後の経過については12月20日午前中の担当医当番日に診察を受ける段取りとし、今朝から始まった投薬は従来の3種類に血液サラサラ剤とコレステロール剤、胃腸薬が追加されて6種類となった。
午前中で点滴から解放されトイレも看護師の付き添いで出来るようになり少し自由になったが心電図の端子は退院時まではずせないとのこと。昼食は鰤の煮魚がつく“豪華版”でもちろん完食、そしてまた何もすることがないという苦痛の時間が続く。退院が決まったのならロビーの喫茶店でコーヒーを飲みながら新聞でもとの思惑が断たれて些か不満の虫も蠢いたが、救急救命センターの患者が病院内をウロつくのはあり得ない風景なのだと天井を睨む。
午後3時半迎えに来た相棒が顔を見せてようやく“ベッド囚人”は解放された。
着替えを済ませ精算窓口で支払いを終えてようやくコーヒーにありつき、あれやこれやと予期せぬ変事に苦労を掛けた相棒を労う。

思いも寄らぬ椿事に丸一日翻弄されたが、夫婦共々今後遭遇するであろう如何なる事態にも少しは冷静に対処できる場馴れ効果はあったようである。
また徹夜で四六時中看護にあたる看護師の献身的な働きには少なからず感動を覚えた。引き継ぎに全く遺漏がなく嫌な顔一つ見せないで患者を気遣う態度は救急救命センターの高い使命感がなせるものであろうか。
ベッドや持ち物を整理し病室を出る。
ナースセンターの前を通る時お礼を述べると全員立ち上がって見送ってくれ実に清々しい気分であった。

四年前の平成25年10月、「一過性脳虚血発作」で一週間お世話になって以来まさかの二度目の入院となった国立病院名古屋医療センター、夕暮れ間近かの陽を浴びる建物を後に落ち葉が舞う舗道を地下鉄の駅に向かう。
正式な病名は「不安定性狭心症」と診療計画書に記載されていた。


(後日の記)
退院翌日、一度発症したがその後全く発症せず48名参加の同窓会(11月13〜14日・南知多)も天候に恵まれて無事終了し責任を全うしたのである。

(了)