入場するときに買った大会資料によると20人の登録メンバーの中に故郷国府町出身の選手がいた。二塁手で8番バッターの稲葉君(3年)で小柄だがタイムリーを含む2安打2打点、守っても再三攻守を見せる大活躍であった。8年前の時にも3安打を放って大活躍した遊撃手下畑君がいて応援に熱が入ったものだが、勿論斐太高校に野球留学などは無縁で古川、久々野、丹生川など地元の校名ばかりが並ぶ。高校野球の原点を見る思いで誠に誇らしい。
ベンチに戻った選手たちは応援席前に整列し深々と一礼、私たちは精一杯の拍手で健闘と勝利を称えた。その後選手たちは応援席の部員たちと金網越しに円陣を作り勝鬨の声をあげた。グランドに立てなかった球友とともに喜びを分かち合う優しい心根が伝わる素晴らしい光景であった。さすが我が後輩たちである。
夏の甲子園に4回出場している有名校で部員は90名を越すというがひと頃の強さは感じられない。怯むことなく根尾投手の力投を軸に接戦に持ち込めば勝機は十分にある。母校の過去の最高成績は4回記録しているベスト4(最近では平成元年)で、まずはその記録に並ぶ健闘を期待したい。
【その後の戦績(長良川球場)】
7月22日(水) 準々決勝 “雨ニモマケズ 26年ぶりの4強!”
斐太高 100 101 000 = 3
市岐商 000 002 000 = 2
生憎の悪天候であったが試合は強行された。今日も先攻の斐太高校は初回二本の長打で先取点、幸先良いスタートを切った。一日休養をとった根尾投手は身体に躍動感が漲り雨で滑るのも厭わずキレのある投球で市岐商打線を翻弄、その間に自らのバットで2点を追加3−0で後半を迎える。6回に長打で2点を失ったが粘りの投球で以降得点を許さずそのまま3−2で逃げ切った。自慢の守備も雨の中で乱れを見せず根尾投手を助け続け接戦をものにしたのである。
応援団もずぶぬれになりながら必死の声援を送っていたが、人数は20日の時より増えていて地元での盛り上がりも次第に勢いを増しているようである。
今日は
テレビ桟敷での応援であったが、後輩たちの頑張りにただ脱帽・・・・・校歌を聞きながら感無量!26年ぶりのベスト4進出である。
7月24日(金) 準決勝 “県岐商を破り飛騨勢初の決勝進出!”
県岐商 021 000 000 = 3
斐太高 300 001 00A = 4
準決勝の相手は抽選で県岐商と決まる。県岐商と聞けばそれだけで戦意をなくしそうな強豪校、正直これが見納めかと再び現地応援に出動、今日はジャイアンツ・タオルを首に巻いて参戦した。授業出席扱いの全校生徒700名を始めОB父兄で合計1,000人は下らない大応援団、三塁側内野席はオレンジ色のスクール・カラーに染まる。
試合は初回敵失につけこんで集中打を浴びせ3点を先取し願ってもない展開となったが、さすがに県岐商は2,3回と鋭い打撃で同点に追いつく。ショート白井君の超美技・併殺で勝越し点を与えなかったのが効き、6回に訪れた唯一のチャンスに稲葉君が貴重な犠牲フライを打ち上げて勝越す。そのまま根尾君が焦る強力打線を抑えて4−3で競り勝った。ついにベスト4の壁を破り悲願の甲子園へ王手をかけたのである。
あの県岐商を破るという信じられない光景に狂喜乱舞する応援団、球場は驚きを含んだ異様な雰囲気に包まれる。私も久しく味わっていない衝動に年甲斐もなく拳を突き上げ雄叫びをあげた。全国区の強豪らしく洗練され整然と応援を送っていた県岐商応援団も思わぬ敗北に茫然自失といったところか。ドラフト候補No1と注目される高橋純平投手は左足の肉離れが癒えず残念ながら今日もマウンドに立つことはなかった。
スコアボードに翻る校旗を仰ぎ校歌を歌う機会を再び与えてくれた後輩たちに心から感謝しつつ友の待つ居酒屋(名古屋)へと道を急いだ。
7月25日(土) 決勝 “夢の決勝の舞台、「悲願の甲子園」成らず!”
斐 太 高 100 100 100 = 3
岐阜城北 104 100 10A = 7
愈々決戦の時到る。
勿論悲願達成の瞬間を見たいと炎天下の長良川球場へ駈けつけた。決戦の相手は準決勝で第一シードの大垣日大を6−0で下した岐阜城北高である。
ノーシードの県立校同士の決勝でしかも一方には冬季を雪に閉ざされる飛騨の学校が陣取るとあって関心を集めているのか、三塁側は斐太高応援団で膨れ上がる。その数は地元からの1,500人を含め4,000人(翌日の報道)にのぼる。球場全体もスタンドはほぼ満席で高校野球ではこの20年来記憶がないという外野芝生席が解放される程であった。(写真は盛り上がる応援団)
割れんばかりの大声援と大観衆の前で平常心を失ったのか、守りで勝ち進んできたチームが4個のエラーで悉く失点し序盤で2−6と水をあけられてしまう。
“先行逃げ切り”で勝ち進んできた斐太高にとって思わぬ展開となり、ヒットは出るが好守に阻まれるなど何時もとは逆の形でリズムに乗れないまま押し切られてしまった。スコア・ボードのヒット数12の横にエラー4とあるのが何とも悔やまれる。そのうち3つの悪送球を犯した根尾君が後で「動揺し迷ってしまった」と述懐していたが、7試合全てに先発し885球を投げ抜いた根尾君の疲労は限界に達していたのであろう。
結局岐阜城北に名を成さしめることになったが、前身の岐阜三田時代と合わせ14年ぶり3度目とのことで甲子園での活躍を期待したい。
悲願にあと一歩及ばず涙を呑んだ選手たちに大応援団は惜しみない拍手でその健闘を称えた。表彰式を終え選手たちがダイヤモンドを一周する頃観覧席には応援団が残るのみで、あの熱気がうそのようにいつもの静けさに戻りつつある。
一陣の熱風が吹き抜け俄かに膨らんだ甲子園への夢は先送りされたが、手の届くところにあることを地元の球児たちに示してくれた。文武両道を旨とする公立校だけにその価値は大きい。夢を見せてくれた根尾君は医学部を目指して翌日から模試に取り組むという。
オレンジの地に白線二本と金色の蜻蛉章が輝く校旗が長良川球場から甲子園に運ばれる夢をこれからも見続けたいと思う。
付録【斐太高野球部 ミニ史】斐太高校百年史(昭和61年刊行) 斐太中(斐太高の前身)編 より
明治33年(1900)新しく赴任してきた英語担当教師佐々木粛が生徒に野球を教えたのが草分けと伝えられ、わずかその四年後に富山へ遠征し対外試合を行っている。斐太中野球部はその間に創部されたものと思われる。
大正4年(1915)現在の「全国高等学校野球選手権大会」の前身「全国中等学校優勝野球大会」が創設開催されたのが今からちょうど100年前で、その東海地区予選大会に斐太中学は岐阜中学(現岐阜高)とともに岐阜県代表として出場しているのである。
(左の写真はその時の雄姿。襟付きのユニホームにはHIDAのマーク、帽子には二重線、足先をよく見ると地下足袋(ぢかたび)を履いているようで草創・進取の心意気が感じられる。)
出場校は愛知、岐阜、三重各2校づつ計6校で、東海三県代表となったのは三重県の山田中学(現宇治山田高)であった。
全国大会は大阪の豊中球場で行われ初代全国制覇の栄誉は京都ニ中が担うこととなったが、それから一世紀を経た記念の今年、京都二中の後継校である鳥羽高が京都府代表として名乗りを上げたのは天のいたずらか奇遇と云うべきか。
戦時中断もあって本大会は今年で97回を数えるが、「夏の甲子園」と愛称され各県の代表校が郷土の期待を背負って覇を競う国民的行事になっている。
しかし残念ながら我が斐太高は一度も本大会に出場したことがない。その間に昭和31年(1956)校舎全焼と云う災難に遭い財政難などから23年もの間硬式野球部は休眠する不遇を体験している。
県予選での成績は雪国飛騨のハンディを背負いながらもベスト4(準決勝進出)を4回経験しているが、今回は見事にその壁を破って初の決勝進出を果たし「準優勝」に輝いたのである。
斐太高野球部は110年以上に及ぶ歴史と伝統を誇り、飛騨地区のリーダーとして普及とレベル向上に貢献してきた。
残されているミッションは“甲子園に校旗を掲げること”その一点のみ・・・・・。
(了)