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92  寺好き四爺「京都・比叡の旅」
平成27年3月18〜19日



【3月18日(水)】
寺好き爺さん5回目の旅は京都・比叡山に遊ぶ。
今回も堀川氏のお骨折りで第一日目は京都・東寺と西本願寺、二日目は比叡山延暦寺を柱とする「お寺巡り」が企画された。 天候は下り坂と予報されているが、今日一日は春らしい暖かく穏やかな日和が期待できそうである。
約2時間のドライブで9時半には東寺の駐車場に到着した。
東寺の山号は八幡山、教王護国寺とも呼ばれる。796年平安遷都間もなく京都鎮護のために創建され、程なく嵯峨天皇より弘法大師(空海)に下賜された寺で高野山と並ぶ真言密教の根本道場である。庶民から「お大師様の寺」として親しまれてきた京都の代表的な名所で、世界遺産「古都京都の文化財」の一部に登録されている。今日の人出はさほどでもなかったが春の観光シーズンを迎える準備はすっかり整っているようだ。
南大門・講堂・金堂・食堂と一直線に並ぶ大伽藍のうち、まずは空海の創建と伝えられる講堂を拝観した。室町期に焼失・再建されたもので一見地味な外観であるが堂内に入って驚く。
国宝16躯を始め仏像が綺羅星の如くに林立する 豪華な陣容に圧倒された。空海が構想したという立体曼荼羅(密教浄土の世界)を形成しているとされるが、その多くが講堂創建当時(平安初期)のもので度重なる災禍に補修を繰り返しつつ今日に至っている。
次に中心伽藍、建物自体が国宝の金堂へ。
平安初期創建、現在の建物は1603年豊臣秀頼の寄進によるもので東大寺大仏殿を思わせる堂々たる構えである。特に正面からのバランスのとれたダイナミックな構造は魅力的だ。高さ10メートルの本尊薬師如来の顔の部分が建物の外部からも拝むことが出来る仕組みはまさに大仏殿のものだ。

そして東寺というよりむしろ京都のシンボルと云っていい国宝・五重塔の出番である。列座する大伽藍からは少し離れた場所にあり辺りを睥睨していた。(写真@)
9世紀末ごろに創建されたが度重なる火災で焼失を繰り返し、五代目に当たる現在の塔は1644年徳川将軍家光の寄進で建てられたものでその威容は圧倒的。見上げると今にも覆いかぶさってきそうな恐怖を感じる。 日本最高の55メートルの高さもさることながら五層の屋根の大きさがほぼ同じであることにも因るのであろう。
また三本の巨木を添木の束でつないだ芯柱は柔構造になっていて地震の揺れを吸収する独特の工夫がなされている。あのスカイ・ツリーにも応用されていて地震国日本ならではの誇るべき智慧と技術である。
塔の中に安置されている諸仏や柱に描かれた曼荼羅図の拝観に加え、芯柱の基石部分も見ることが出来た。聞けば正月から続いていた塔内部の一般公開は今日で終わりとか、何という幸運か。
仏陀の舎利は塔の最先端にある宝珠の中に収められている由、遠くからも拝むことができるという。
弘法大師が住坊としていたという国宝・大師堂(御影堂)は外観のみの拝観に終わる。
境内の真ん中には大きな枝垂れ桜があり開花を間近にうっすらと赤みを帯び始めていたが、満開となり秀麗な五重塔を通し見る景観はさぞやと想像を膨らませる。早咲きの桜の前では訪れた人達が盛んにカメラを向けていた。
11時を少し回った頃東寺を出て近くの食堂で昼食を摂る。京都らしい“ゆば丼”を注文したが、胃に優しい老人食といった趣で些かパワー不足を否べず・・・・・。

次に向かったのが目と鼻の先にある浄土真宗の総本山西本願寺である。こちらも世界遺産の一部として登録されている。
1321年宗祖親鸞のひ孫にあたる覚如により廟堂が寺院化され「本願寺」が成立、紆余曲折を経て1592年秀吉の寄進により現在地に阿弥陀堂を新築して本願寺が完成した。路線対立(穏健派と抗戦派)が表面化して東本願寺派(真宗大谷派)が分派独立、本家(穏健派)の方は本願寺派(通称西本願寺)を号し現在に至っている。
広大な境内に入ると信徒らしき人影がちらほら・・・意外と静かな佇まいである。
いずれも国宝の阿弥陀堂と御影堂が世界最大級の木造建築らしく堂々たる風格を見せていた。(写真A御影堂から阿弥陀堂を望む)
特に御影堂は東西48m南北62m高さ29mのスケールで、中に入ると一度に1,200人は収容できるという大広間はまさに壮観、親鸞聖人の御真影が安置される壮麗な祭壇の前に蹲って頭を垂れた。我が身も一応浄土真宗の門徒なのである。頭上には宗祖親鸞の諡号「見真」と大書された額が掲げられていた。スケールの大きさと云えば御影堂前の境内中央に羽を広げた孔雀のような樹齢400年という大銀杏にも目を奪われる。
桃山期の伏見城の遺構とされる絢爛たる唐門や書院などを見て回り御影堂門から退出した。金閣、銀閣と並び「京都の三名閣」と称される飛雲閣(国宝)は残念ながら非公開であった。
仏具店などが並ぶ門前町を散策するなどして予定では比叡山に向かうことになっているが時計は午後2時を回ったばかり、年を取るほど気が短くなるらしい。神様には失礼だが時間つぶしに途中の下鴨神社に参詣することにした。
五月の葵祭で知られる世界遺産下鴨神社は京北、鴨川と高野川が合流する辺りにあり創建は悠遠にして未詳、500mもあろうかという砂利の参道を歩く。葵祭では総勢500名にも及ぶ王朝風俗の祭列が練る参道である。
合格祈願の神様でもあり若者の姿が目立つ。葵祭に使用されるのか社殿の片隅に牛車が展示されていた。
車に戻り改めて比叡山を目指し九十九折りの坂道を登って行く。
京都の町から望む比叡の山は標高848m、凛として霊山の風格を漂わせているが思ったより優しげである。

午後4時、今宵の宿「延暦寺会館」に到着した。
延暦寺伽藍の中心である根本中堂のすぐ近くにあり“比叡の山の宿坊”イメージとは程遠く 全くの観光ホテルであった。 チェックインし案内された部屋は和様で予定より一ランク上の部屋を用意したとのことで“二つ目の幸運”、琵琶湖を眼下に一望できる最上階(5階)の素敵な部屋であった。少し靄がかかっていたが湖上には沖島が浮かんでいた。
この辺りの標高は650mと聞くが、麓からの陽気が残っているのか殆ど寒さを感じない。
小憩の後、まずは足固めとばかり付近の「東塔」域を散策することにした。
延暦寺と云えばまず総本堂の根本中堂、向かうその道筋で一人の若い女性に逢う。北海道旭川から一人で比叡を目指してやってきたという。思うところあって・・・と口を濁し謂わくありげであったが、明るい口調にこれ以上の詮索は野暮というものである。この山はそれほどの魅力を秘めているということか。
急峻な山腹に築かれた傳教大師(最澄)自ら創建したと伝えられる巨大な根本中堂(国宝)(写真B)、48段の石段を登る文殊堂、鐘楼、講堂などを見て回る。坂道に息も上がるが明日への好奇と期待が“75才の足取り”を確かなものにしてくれているようであった。
厚さを増す雲とこぼれ出した雨粒の行方を気にしつつ宿へ戻る。
ゆったりと風呂に浸かりいつもの晩餐となった。勿論仏教の聖地とあれば“精進料理”だが般若湯は無尽蔵で、次第にボルテージは上がる。泊り客は我らの他は先刻の女性と夫婦連れが二組ほど、ガランとした食堂の片隅で空にした一合徳利が12本、これも健康と友情の証か。
山の雨もいつしか本降りになっていた。

【3月19日(木)】
6時起床。
カーテンを開けると雨霧に煙る山峡に杉の木立が墨絵のように浮かんでいた。
やはり残念ながら雨が上がる望みはなさそうである。
身支度を整えて6時半から根本中堂で行われる「朝事(あさじ)」と称する勤行に参加する。
根本中堂の前で暫く待つと重々しい扉が開き中へ招じ入れられた。まだ雪塊が残る前庭を眺めながら回廊を進み畳敷きの中陣に座る。頭上には昭和天皇揮毫の「傳教」の額がかかげられていた。
目の前の内陣は3m程低くなっていて如何にも冷たげな石畳である。
中央と左右に3基の須弥壇が置かれ最澄自作といわれる本尊の薬師如来を始め諸仏が安置されている。本尊の前には創建以来絶えたことがないという“不滅の法灯”が辺りを柔らかく照らしていた。内陣と中(外)陣の温度差は5度程もあり厳冬期には石畳に浮いた湿気が凍りつくという。
毎日護摩焚きが行われているという向かって左側の須弥壇の前で一人の僧が座り「朝事」が始まった。中陣の床下に2,3人の伴僧の気配がある。かすかに届く雨音とともに 法華経から始まる朗々とした読経が響く心地よい時が過ぎていく・・・・・。
「朝事」の後の法話によれば比叡の山は「煙霧樹林」「論湿寒貧」と称される程に神秘的で厳しい自然条件を備えているという。また近く根本中堂の大改修工事が始まり長期間の閉堂に入るとのことで誠に時を得た企画で“三つ目の幸運”であった。
約40分の朝事を終え清々しい気分に浸りつつ宿に戻って朝食を頂く。一味も二味も違う美味しさであった。
チェックアウトを済ませて午前9時、本降りの雨の中宿を後にする。
世界遺産に登録されている延暦寺伽藍の150に及ぶ塔頭は大略3グループに分けられる。第一群は昨夕から今朝にかけて拝観してきた「東塔(とうどう)」、第二群は釈迦堂を中心に傳教大師の霊廟がある「西塔(さいとう)」、そして第三群は「横川(よかわ)」でその中心は横川中堂である。
今日はこれから第二、第三群を拝観して回る予定だ。

車を降りた西塔駐車場は人っ子一人どころか一台の車もない。ただ広々として降りしきる雨音のみ。少し歩くと法華堂と常行堂が渡り廊下でつながる異様な光景が目に入る。“弁慶のにない堂”と称されているそうだ。その先の石段を降りると山内最古の釈迦堂、戻って暫く歩くと比叡山で最も清浄な聖域とされる浄土院があり傳教大師がこの地に眠っていると伝えられる。浄土院の奥に廻ると雨に煙る杉木立の中に鮮やかな光彩を放つ廟堂が静まっていた。(写真C手前は残雪)
高野山の奥之院に相当するが即身成仏の弘法大師のように毎日「生身供(食事)」を供されることはない。
さらにドライブウェイを奥へ走って横川へ。再び傘をさして歩くが折り畳み式の傘では体を覆いきれず肩や足先は濡れるに任せるしかない。
手入れの行き届いた杉木立のどこで雨宿りをしているのか思いがけず鶯の声が響いた。僧の詠む法華経にでも惹かれたものか、早春に似ず臈たけた歌声に感じ入る。
横川の主役は清水寺を思わせる横川中堂で、鮮やかな朱色の柱組と屋根からの落雪と思われる残雪が印象的であった。
天気が良ければもう少し丁寧に拝観出来たろうにと心残りではあったが、「煙霧樹林」もまた佳し寺好き四爺の比叡山延暦寺参詣はかくして終了したのである。(写真D)

諡号が示す通り傳教大師創建の延暦寺は天台密教の総本山というより、まさに日本仏教の聖地であり顕教、密教を問わず研究・研鑽が行われてきた謂わば総合大学のキャンパスであり道場である。法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(日蓮宗)一遍(時宗)等々幾多の高僧・宗祖たちが若き日をここに学び修行した。
現在も凡そ100人の僧が叡山に籠り修練を積んでいるという。
雨の中の素通りに近い参詣・拝観ではそうした僧侶たちの姿を見ることは叶わぬも道理だが、朝の根本中堂での何人かの僧以外には全く見かけることはなかった。
駐車場に戻ると観光バスが一台到着したばかりで沢山の傘が吐き出され始めていた。
時に10時半、悠々下山を始め俗界に還ることにした。時間があれば麓の三井寺、石山寺などを拝観する予定であったが、降りやまぬ雨に戦意を挫かれてスキップ、草津辺りで昼食を摂った後一路帰途に就いたのである。
今回も世話になるばかりであった諸兄に心から感謝しつつ・・・・・・・・。



(了)