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88  我が枕辺の辞書たち
平成26年5月1日



私の枕元はおおぜいの愛する辞書・事典の類に囲まれている。
本棚の傍で寝るのは危険だと妻は云うが、一応天井と本棚の間につっかい棒をいれて気休めの地震対策はやっている。しかし揺れたときにどこまで支えてくれるかは全く未知数で、もし倒れて下敷きになり命を落とすことがあってもそれは本望(?)と云うものだ。

さてその辞書・事典の類だが、まずはずらりと並ぶのが30年前に買った「ブリタニカ国際百科大事典」(全30巻)である。 “一家の応接間には必需品”とまるで家具のような宣伝に乗せられ月賦で買った代物で、ネット検索が常態となった今は殆ど手に取ることも無くなり専ら本棚の重心を下げる役割を担っている。

最も紐を解く頻度が高いのは「広辞苑」(新村出編 第三版)で、2年間のハカチョン暮らしから戻って「日記こもれび」を綴り始めた昭和61年頃に買ったものである。「日記こもれび」にとっては最も付き合いの長い“親友”というわけだ。当時はまだパソコンが企業に導入され始めた頃でワープロが幅を利かせていた。記憶力が衰えを見せているこの頃は、浮かぶ用語に自信が持てない時などに助けを借りている。
次に多いのは旺文社版「漢和中辞典」だ。修飾語や比喩する慣用句などで思い出せそうで思いつかないような時に頼りになる助っ人である。手懸りになる漢字から記憶を呼び戻そうとするのだが、うまく掘り出せた時の喜びは格別だ。娘が家に居た頃よく借りに来た辞書でもある。
その隣が旺文社版「英和中辞典」、英文を引用するときそのスペルを確認するのが主な役割で豪華な収録内容に比し用途が矮小なので少々気の毒な気がする。
この三冊の辞書が謂わば“我が枕辺のビッグ・スリー”である。

現役末期(平成15,6年頃)、丸善の古本市で手に入れたのが故事俗信「ことわざ大辞典」(小学館)で枕元の宝物的存在だ。「記・紀」の時代から江戸時代の随筆類に至るまで約43,000項目を網羅した最も重い辞書である。暇に任せて気ままに開いた頁を読むのも日本語の味わいと底の深さに触れるようでなかなかに楽しいものだ。
意味は同じでも日本語の持つ語感の違いを解説した「日本語 語感の辞典」(中村明著岩波書店)は四年前に発刊されたものでラジオ深夜便(NHK)で耳にし購入した辞書だ。 約10,000語を収録しているが通常辞書は編者を表記するもので“著者”と称するのは珍しい。一国語学者の研究成果をまとめたものだから著書とすべきが相応しいと云うことか。
文章上微妙なニュアンスを表現するとき比較引用する際に利用している。これも“読んで楽しむ辞書”の典型であろう。
また、氾濫する外来語の用途を誤らないよう意外とよく使っているのが「現代外来語辞典」(三省堂)である。
もう一つの変わり種「草書の字典」(講談社文庫本)は、旅先などで見かける書や掛け軸の草書体が判読出来ず悔しい思いをすることがあるが、何とか読めるようになれないものかと買い求めたもの。しかし一向に効き目が無くやはり基本の書を学ばねば駄目のようで精々我流の筆書きに参照している程度だ。

その他「新小辞林」(三省堂)、「実用字典」(三省堂)、「実用英語サクセス小英和」(日本英語教育協会)等があるがめったに使うことはない。隅っこには高校生時代に使っていた「コンサイス和英辞典」(三省堂 昭和29年版350円)、「高校生の国語事典」(教学社 昭和29年版120円)、「明解漢和辞典」(三省堂 昭和29年版350円)も勉学の証としてつつましく並んで今もなお健在だ。就職した時田舎から一緒に出てきたものに違いなく、頁を開くと遠いあの頃の空気が漂ってくるようである。

枕辺ではなく机上に陣取って活躍している辞書もある。
物忘れが気になる中、相変わらず毎日書いている日記のせいで辞書を開かぬ日はないが、特に頻繁に使っているのが「大きな文字の実用漢字辞典」(本の友社)と「デイリーコンサイス英和・和英辞典」(三省堂)である。細かい字が見にくくなっているこの頃では大変重宝していて、少しでも老化のスピードを遅らせてあげようと時を問わず頑張ってくれているのだ。

かくかくしかじか我が日常は何事もなく過ぎているが、多彩な辞書たちに囲まれ折に触れて頁をめくる時そこはかとなく穏やかな安らぎを感じる。それは一体何処からくるものなのか。
分厚い辞書に刻まれた無数の活字が醸し出す安心感のような気もするのだが、どうやらそれは年々衰えを増す脳の力を補ってくれているサポーターのような心強さなのかもしれない。キーボードを叩くと瞬時にディスプレイに映し出される活字群が一瞬のキー操作で消えてしまうような味気なさとは対照的な手元にある確かさと暖かさ、それにゆっくりした気分が懐かしいのだ。
念願の新しい辞書を手に入れ始めて頁をめくったときほのかに漂う印刷インクの匂い、膨らむ知識の面白さ・・・・・私達の年代なら誰しも持っている遠き日の想い出が、隙のないデジタルの世界からひとときの解放を味わわせてくれるのである。付け加えるなら今は死語に近いが辞書のことを昔は「字引」といい日常的に使っていた。漢字を調べるためによく引いたところからきているようだが何とも懐かしい響きである。

4月6日付朝日新聞の「天声人語」は、「あなたは今日ペンで文字を書きましたか?」と書き言葉の衰退を認めつつも抵抗する決意を語る作家藤原智美の書を紹介している。代わって勃興した「ネットことば」の特徴は自分の言葉と他人のそれとの境が曖昧になり、近年目立つ論文の盗用や政治家の放言も誰の言葉なのかという所有の意識が薄れて無責任になったためと指摘する。筆を動かし一文字一文字刻みつける行為には苦楽がともに潜むが、下手でも自分の言葉という自覚を生む・・・・・という「天声人語」氏の主張に共鳴する。言外に辞書の存在とその効用を明らかに示唆しているようにも思える。
パソコンやスマホの普及で辞書を引かなくなったせいか、驚くことに五十音順やアルファベット順を正しく云えない若者が増えているらしい。 パソコンやネット社会の利便性は認めるとして言葉を吟味し自分の意思を正しく表現する鍛錬は、自らの手で筆を動かし自らの言葉を綴る努力を重ねることと考えている。安易なネット検索に頼り過ぎず日本語のもつ奥ゆかしさや豊かさを追い求める姿勢を忘れないことが大切なのだと改めて思う。デジタルの世界とアナログのそれが程よくバランスするとき最高のパフォーマンスが得られるなどと独りごちているのである。
そんな私を励まし支援してくれているのが他ならぬ枕辺や机上の辞書たちで、夫々の持ち場で力を発揮し無類のチーム・ワークで私の背中を押し続ける頼もしい存在なのだ。

今日も万年筆のインクを気にしながら「日記こもれび」の新しい頁を開いている。
勿論傍らには赤い表紙の「大きな文字の実用漢字辞典」が侍るいつもの風景である。


(了)