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86   入 院 記
平成25年10月22日〜27日



10月22日(火)
今、病室のベットで横になっている自分がまだ信じられない。
カーテンで仕切られた4人一部屋の入り口近く、2坪あるかないかのスペースが与えられている生活空間である。
何しろ全てが初めての経験ばかり、看護師が消灯して回った後の薄暗く無機質な天井に目を泳がせながら今に至る経緯をなぞっている。

10月17日のことである。
高校の同窓会で伊勢志摩へ一泊の旅に出た第一日目、「なばなの里」でお花畑を散策中に突然左足の自由が利かなくなりよろめくように柵に掴まる。何とか足を運んでベンチまで戻り暫く休んでいたら嘘のように回復した。その後は特に問題もなくスケジュールをこなして無事帰宅した。
心配した同窓生たちの勧めもあり週明け21日に近くの病院で検査(MRI)を受けたところ、「脳血管の一部に細くなっているところがある。血流が悪くなったことによる一時的な脳梗塞」との診断であった。血流を良くする薬(血栓予防)の服用を指示されたが、脳そのものに問題があるのかどうか今一つすっきりした説明が貰えなかった。
そこで今朝(22日)、名古屋へ出かけ高血圧の治療で通院しているY内科の先生に相談してみた。状況を聞いた先生は「脳梗塞の前兆で重大なシグナル、今度起きたら深刻な状態になるかも知れぬ。大きな病院でしっかりした検査をやったほうがよい」とアドバイス、さっそく提携先の国立病院を紹介し検査の予約を入れてくれたのだが・・・・・
その帰路である。
昼食を摂り名古屋駅で電車を待っている時、突然同様の症状に見舞われた。
左足のコントロールが不能となりよろめくように列を離れる。近くにいた駅員が駆け寄ってくれたが何とか転倒は免れ入ってきた電車に乗る。席に座って暫くすると何もなかったように回復した。その間5,6分も経ったであろうか。
さすがに二度目となると不安が頭をよぎる。
帰宅しY内科の先生に報告すると「即入院、国立病院には予約を入れておく」と強い口調で緊急入院を勧められる。まさかと多少の逡巡もあったが否も応もなく入院を決断、身の回り品や保険証、筆記用具・ポケット・ラジオそれに同窓会の準備資料ファイルなどを気がつくままにザックに詰め込む。
こんな時相棒(妻)は頼りになる。

まず愛犬「豆蔵」をペット・ホテルに預け日頃親しくしている友人に相談しながらてきぱきと準備を進める。その友人が名古屋まで車で送ってくれるというのでその好意に甘えることにした。
陽の傾きかけた41号線を走って午後4時半には国立病院名古屋医療センターの受付窓口に立った。
あとは病院の手順に身を任せるのみ・・・・・。
まず、慌ただしい雰囲気の救急患者室に入れられピンク色の患者服に着替えさせられる。体調確認や発症の経緯などを聞かれ暫くして検査が始まった。胸部X線、心電図に始まりMRI検査、CT断層撮影と続く。MRI検査も二度目ともなれば大音響もあまり苦にならず、一通り終わったのが7時半頃、水分補給目的の点滴が始まり車椅子に乗せられる。無論車椅子に乗るのも初めて、一気に病人らしくなって待っていた相棒や友人とともに用意された病室に向かった。
東棟の6階610号室(4人一部屋)が暫くの間の仮住まい、個室への変更申出も考えたが、せいぜい一週間、一人住まいより賑やかでいいかと不満顔の相棒を宥め、看護師から入院生活のルールや設備の説明を受ける。同室は二人、カーテン一枚だけがプライバシーを守るという心もとなさで話し声など丸聞こえ、常に同居人を意識せざるを得ない。(スケッチ図)
取りあえず担当した当直医の女医さんが検査結果と当面の治療方針を説明してくれた。
「MRI検査では特段の異常なく血栓の詰まりで一時的に血流が止ったのではないか」との所見でさらに明日詳しく検査するとのこと。水分補給の点滴が終わったら血流を良くする薬の点滴と服用で集中的に改善を図る方針という。そこまで聞いて相棒と友人は帰って行ったが友人の親身に勝る協力には感謝の言葉もない。相棒は佳き友に恵まれている。
売店で買ってきてくれた好物の稲荷ずしを食べベットに横たわる・・・・・。

ようやく我に返る。果たして入院は一週間程度で終わるだろうか。
幹事の中心的役割を担っている中学校の同窓会があと20日後に迫っていて長引くようなら誰かに引き継がねばならない。不安に駆られ天井を睨むがこうなったら成り行きに任せるしかないと腹をくくる。
病室の扉は終始開きっぱなしで、消灯時刻の9時には看護師が電気を消して回る。
深夜、点滴はソルデム3Aに変わり、これからずーっと続くという。トイレも洗面も食事も移動式点滴具を引きずっての不便極まる毎日が始まった。親愛を込めて「点滴ロボ」と命名したが、付き添いが無ければエレベーターでの移動は禁止、一人での行動範囲は6階のフロアだけと厳しく制限されたのである。一定の間隔で看護師の見回りがありその物音で目が覚めたり、点滴のせいかトイレが近く眠りが浅いまま朝を迎えた。

10月23日(水)
朝6時部屋の電灯が点く。看護師が各部屋を回って異常がないかを確かめているようだ。
7時朝食の時間である。
箸と湯呑を待ち点滴ロボを引きずりながら病室を出ると同じような格好の患者が2人、3人と廊下に出てくる。自室で食べる人も多いようだが、廊下の突き当たりが食堂になっていて10人程が集まっていた。ここでもやはり元気なのは女性たち、仲良しグループが出来ているのか賑やかである。配膳カウンターの前に並び病室と名前を云って通常食の膳を受け取る。座る場所も電源(点滴ロボ用)の届く位置でなくてはならない。献立はご飯、味噌汁、法蓮草のおしたし、半熟卵、ふりかけで味気ない器のわりには意外に旨く全てを平らげたが、これを病院では「完食」と称するらしい。

部屋に戻り暫くするとY内科の先生が紹介してくれた医師が顔を出し所見を説明してくれた。曰く「MRI検査で見る限り特段の異常はない。左足だけに出ている症状は脳の障害としては珍しく、通常は顔面、手、足と上から順番に発症するもので、さらに詳しく調べる必要がある。投薬は点滴で即効性を求め錠剤の併用で改善を図るが副作用は心配ない。現在服用している血圧の薬と同様に考えていい。」と懇切丁寧な説明であった。脳自体に異常がないことが確かめられほっと胸を撫で下ろす思いである。
後で調べたら院長以下250名程の医師のうちNo4の地位にある人物であった。
暫くして担当する主治医の女医さんがやって来て状況を確認、後は点滴ロボがくっついたままの窮屈で退屈な時間が始まる。 昼食は病室で摂り、2回目のMRI検査を受ける。さらに焦点を絞っての検査とやらで約10分で終わった。昨日とは別の部屋で設備も新しく電磁発生時と思われる衝撃音も心なしか穏やかな感じであった。
午後3時過ぎ約束通り相棒が顔を出す。
パジャマや下着を新調し頼んでおいた新聞や歯磨きセットを持ってきてくれた。その後の経過などを話していると突然Y内科の先生が現れびっくり、今日の診察は午前のみで帰宅途中に心配して様子を見に来てくれたのである。昨日の発症の様子や入院以来の経過、それに紹介して頂いた医師が来て丁寧に説明をしてくれたことなどを話し、入院の決断を促してくれたことに感謝の気持ちを伝える。相棒も暫く談笑しあれこれと世話を焼きながら帰って行った。
外は雨のようだ。
テレビや新聞で暇をつぶしながら決められたスケジュールに身を任せる。せめて病院内を自由に歩き回れたらと切ない思いで第二日目も暮れていく。
それにしても終日点滴ロボにまとわりつかれ、給餌を受ける囚人のような扱いには正直閉口だ。
特に点滴ロボは電源コードが抜けたり寝返りでチューブが外れたりすると「ピー・ピー」と騒ぎ、点滴薬が少なくなると時を選ばず「ピー・ピー」と夜の静けさをも台無しにする。同室者に気を遣いながら呼び出しボタンを押し看護師の到着を待つのだ。
この時、点滴ロボは「天敵ロボ」に改名されたのである。看護師にそう伝えると大笑いしていた。
今日一人入室患者があり610号室は満室となった。

10月24日(木)
入院3日目が始まる。
雨も上がったようで廊下の窓から茜色に染まった朝焼けの空が覗く。
既に点滴は5袋目になっているが、500ミリリットルを概ね6時間かけて血液中に浸透させる勘定になる。左手首の内側に刺された注射針に殆ど痛みが無いのは救いだが四六時中の同伴はご免蒙りたいもの、看護師に「何時まで?」と聞いても「まだまだ・・・」とつれない返事、下手をすると退院まで続くのかもしれない。「天敵ロボ」を見上げると可哀そうな奴とでも云いたげにソッポを向いている。
入院以来風呂に入っていないが蒸しタオルが毎日配られ体を拭ってお茶を濁している。同じフロアに共同風呂があるが点滴が続く限り風呂は無理である。
午後、追加検査が行われた。
どうやら左足だけに発症している点に疑念があるらしく脳以外の原因を探るために行うようで、@胸部X線検査、A手首足首の血圧、脈波検査、B24時間ホールダー心電図検査である。
2時半主治医 から2回目のMRI検査の結果でも異常は見つからず、@Aの結果が正常かつBに特段の異常がなければ週明けにも退院できるとの有難いご宣託があった。
そして点滴も今回で終了、やれやれこれで丸二日間付きまとわれた「天敵ロボ」から解放されることになる。ただ二回に及ぶ発症の原因が釈然としない点が気になるが、綿密な検査の結果脳に異常がないことが確認された点は大きな安心材料で、血流を良くする療法で対処する方針は納得できる。
同窓会幹事の仕事があり出来るだけ早く退院したいという希望を容れてくれ、27日(日)午前中ということに決まった。無論今日の検査に異常がなければという条件付きだが、状況から見てまず問題が出る可能性は少ないとみているようだ。退院後は服用中の薬を続けることになるとのことで次回診察は11月20日午後となった。
とにかく退院日が決まって大万歳。
夕方のテレビはプロ野球のドラフト会議の模様を中継していたが、注目の高校生松井投手(桐光学園)は5球団の競合となり創立9年目で初のリーグ・チャンピオンとなった楽天イーグルスが交渉権を獲得した。被災地東北になびく何か強い運気を感じる。
就寝後9時50分点滴終了のシグナルで手首の針が抜かれた。“天敵”から解放された瞬間である。
あと体に付けられているのは24時間ホールダー心電図のワイヤーと記録装置(タバコの箱大)である。

10月25日(金)
季節外れの台風の影響か、どんよりした雲が拡がる。
入院4日目の朝が来た。退院日が決まって晴々した気分だ。
朝食、天敵ロボの呪縛から解放されコンセントを気にすることもなく自由に場所を選べる。これが普通なのにその有難さが身に滲みてか今回も“完食”、アルコール抜きの完食続きに極度の運動不足で体重が増えているかもしれない。
食事後今夜予定されている飲み会と11月6日予定のゴルフを欠席する旨連絡する。
午前9時半主治医の診察。
昨日の検査の結果には異状なく予定通り27日退院できる。退院後の服用薬は11月20日までは現在服用中のものと同じ、以降も同様の投薬を続けることになると思うが、Y内科で血圧の薬と一緒に受け取れるよう配慮するとのこと。最終的な病名は「一過性脳虚血発作」で脳には異常がないことを再確認する。
暫くして入院費概算金額が通知された。「包括払方式(DPC方式)」という聞きなれない計算方式で大病院に適用する診断群分類に基づく簡便法のようだ。
ベットに横になっているうちにうとうと・・・昼食の配膳で起こされる。一定の時間内に食堂に行かないと病室に運ばれてくる。今日のメニューはカレー・ライスとサラダ、運動不足であまり腹は減っていないが全部平らげて“完食”。これで8食目になるも同じ献立は一度もない。事前に献立の希望を取る仕組みも出来ている。減塩食だとこうもいかぬのだろうが、病院食も馬鹿にしてはいけないとすっかり認識を改めた。
午後2時を回り24時間心電図ホールダーを取り外し、体のどこにも付着物がなくすっきりした状態に戻った時、ちょうど相棒が着替えなどを持って現れた。
さっそく新調のパジャマに着替えて足取りも軽く一階の喫茶店へ。久しぶりのコーヒーを楽しみながら経過やら退院後のことなどを話す。退院が決まっているので気分も軽い。退院日は正午までに退室する必要があり11時には来てほしい旨打合せて相棒は帰って行った。日頃口喧嘩が絶えない相棒が慈母観音のように見えるのはどうしたことか。
始めて売店で新聞や雑誌を買い病室に戻ったが、やっと人並みの生活に還った喜びを噛みしめる。
夕食は大好物の焼き鯖、超高層ビルの夜景が新鮮であった。
こんな時にビールでもあればと思いそうなのに、毎晩晩酌を楽しんでいた一週間前までがまるで嘘のように全くその誘惑を感じないのが不思議である。今までただ惰性で飲んでいたのか、病院という舞台仕掛けに感覚が鈍ってしまったのだろうか。 酒に対する我が執着がそんなにも儚いものだったのかと思いを改める。

11月26日(土)
入院5日目の朝も5時頃には完全なお目覚め状態で気分も悪くない。
6時点灯で静かな病棟内が俄かに動き始める。
今日は物理的な束縛から完全に解き放たれた貴重な一日で、何の診察・検査の予定もなくきょう退院しても何ら差支えない、いわばボーナス的一日である。
体調もよくこの際とばかりに院内探検を企んだ。
今日は週末・土曜日で窓口は全て閉鎖、医師や看護師の姿もまばらでナース・ステーションも閑散としている。となると廊下を行き交うのは老患者ばかり、神経内科の病棟だけにそうなるのかも知れないが目を背けたくなるような人もいる。自分もその仲間に入りかけている老人大国の象徴的絵図で空恐ろしくなる。
朝の主治医回診もなく売店で新聞を買い喫茶店へ、いつもの土曜日ルーティーンの病院版である。
ただモーニングセットというわけにはいかない。熱いコーヒーを啜りながら新聞を開く・・・リッチな気分を味わって部屋に戻ると主治医がやってきて明日の退院は予定通り、Y内科の方にも連絡しておくとのことであった。
昼前に隣のベットのKさんが退院し再び3人になった。
11時半看護師から最終的な退院手続の説明を受ける。
昼食は食堂で、午後の窓外は台風一過の秋空で溢れんばかりの陽光の中、眼下に広がる名城の森は確かな色付きを見せ始めている。時間を持て余して再び喫茶店へ、面会人達で賑わい始めたロビーを徘徊し展示物などを見て歩く。
病院の沿革を見ると1878年(明治11年)の創立で当初は「名古屋衛戍病院」と称していたとあり犬山の明治村にその一部が保存されていることを思い出した。現在提携医療機関数は800を超えていて、医師二代にわたってお世話になっているY内科も登録されていた。
夕食後は野球観戦、日本シリーズ第一戦は巨人が2−0で先勝、気分よく就寝。

10月27日(日)
午前3時、同室者の鼾で目を覚ます。この2,3日トーンが大きくなり気になっていたが今日ばかりは感謝しなくては・・・・・毎月最終日曜日朝4時台のラジオ深夜便「心の時代」は五木寛之の「歌の旅人」で、念のために目覚ましをセットするほど楽しみにしていている。もともと自分は五木ファンで深夜便アンカー須磨佳津江との呼吸の良さが何とも云えず幸せな気分にさせてくれるのである。今朝は青森県編であった。泊りで出かけるとき必携のポケット・ラジオが今回も毎日のようにフル活動で慰め励ましてくれている。
さて今日は待望の退院日。
天気も快晴で祝ってくれているようだ。病院食も今朝でおしまい、最後まで“完食”を貫く。
殆どを食堂で食べたが中年女性の仲良しグループは相変わらずで今日も朝からおかまいなしの賑やかさ。入院暮らしの鬱憤を晴らしているのだろうが少しは周囲に気を遣って貰いたいものだ。片や男性軍と云えば膳を受け取るとさっさと自室へ持ち帰る。典型的であまりに対照的な風景である。
当直看護師の検温、血圧測定はいつも通りだがあとはフリー、六日ぶりに衣服を改め売店でスポーツ紙を買い喫茶店で巨人先勝の味を噛みしめる。
そこへ予定より早めに相棒が現れた。
病室に戻って整理を始めバッグやザックに詰め込んで病室を出た。同室の人達に黙って退出するのもどうかと思ったが、考えてみれば全くと云っていいほど顔を合わせても居ないし言葉も交わしていないのである。それが礼儀なのかもしれない。 ナース・センターで当直看護師に挨拶し一階の時間外窓口へ行く。
退院の旨を述べ概算請求書を提出すると全て必要書類は用意されていて手続きはあっという間に終了。次回の通院日11月20日までの服用薬は既に受け取っている。

かくして晴れて退院!
6日間ばかりの入院で大きな口は叩けないが“娑婆の空気”は新鮮であった。少し冷たく感じる秋の風は爽やかで陽光が眩しい。大きく深呼吸を繰り返しながらしっかり支えてくれた相棒と歩調を合わせ地下鉄の駅に向かった。
今度の初めての入院で印象に残ったのは、院内が極めて清潔に保たれていること。また大勢の医師・スタッフで運営されているにも拘らず、その間の引き継ぎやデータの共有が完璧になされていて齟齬が全くなかった点で、データ管理システムや要員教育のレベルの高さを感じる。そして入院するということはどういうことなのか、病院の空気を吸っていると知らぬうちに病人的物腰や病人的思考様式が染み付いてしまうことなど当事者になって初めて気付くことが多く相棒ともどもいい勉強になった。
電車を乗り継いで帰宅したが、その間終始自分の様子を観察する相棒の目を感じる。完全に治癒する性質の病ではなく再発を防ぐ投薬を続けるということなのでやはり気になるのであろう。
六日ぶりの我が家、狂喜乱舞するかと思った豆蔵クンは意外に冷めた態度で出迎えたが尻尾を盛んに振っていたので喜んでいるには違いない。一休みした後豆蔵を連れて近くの公園へ散歩に出かけた。日曜日なのに来園者も少なく静かな森を豆蔵ペースで歩いてみたが、それほど苦にならず思った程弱ってはいないようだ。
入院中は同窓会の準備は何も出来なかったが、前倒しでやれることはやっておいたので全く支障なく幹事仲間にも話していない。これでどうやら常態に復帰したと考えていいようである。


(後日の記)
退院翌日、一度発症したがその後全く発症せず48名参加の同窓会(11月13〜14日・南知多)も天候に恵まれて無事終了し責任を全うしたのである。

(了)