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85  旅爺の古寺巡礼「斑鳩・飛鳥の旅」
平成25年4月23日〜24日



(4月23日)
旅爺の旅も今回で4回を数える。
今回も粕谷氏が発案し堀川氏の企画・案内で“大和は国のまほろば”斑鳩の里と明日香村を訪ねることになった。飛鳥・白鳳期の御仏たちに会いに行くのはもちろんだが、古代ロマンを現地で味わうのもまた劣らぬ楽しみである。
早朝7時伏見(名古屋)に集結して高速道路で西に向かう。順調に走って9時半には法隆寺に到着した。

法隆寺は世界最古の木造建築として世界遺産に登録されている押しも押されぬ日本の宝で、国宝38件134点、国の重要文化財 190件2,300点を有する大伽藍だ。誰しも一度は訪れたことがあると思うが70才を越して拝観する法隆寺はまた格別の感慨を催す筈である。
さっそく予約した案内人(ボランティア)と顔合わせ、聞けば昭和13年生まれとか、我らと同世代で波長はぴったり心地よい拝観が始まった。
まずは南大門前の250mに及ぶ参道を歩く。両側に松の木が整然と並ぶ直線の道から遠く南大門を望む序章はスケール感充分でボランティア氏の巧みな演出である。
歩きながら法隆寺の沿革を聞く。
西暦607年聖徳太子により学問寺として創建されたが670年に全焼の憂き目に(日本書紀)、後710年頃再建が終わったとされているものの果たして本当か?100年論争の末、西院内で若草伽藍が発掘され、南大門の前から焼けた建材が発見されるに及んでようやく決着した。では誰が何のために再建したのか謎は残り諸説姦しいが、梅原猛によれば藤原氏が聖徳太子一族と蘇我氏の怨霊を鎮めるために8世紀初頭に再建を終えたとしている。このボランティア氏は相当の勉強家とお見受けする。

南大門をくぐりさらに歩を進めると左に屋根の上に土を盛り草花を植えるという上土門があったが案内がなければ見過ごすところだ。
中門前に着く。 飛鳥時代の木造建築は中門、五重塔、金堂、回廊の4件で(いずれも国宝)@エンタシスの柱A卍崩しの欄干B雲形の肘木を持つのが特徴と解説が続く。左右の金剛力士像が迎える中門右手前に若草伽藍の遺構があるはずだが壁に遮られて伺うことはできなかった。
エンタシスの柱についてさらに解説が続く。ギリシャからシルクロードを経て日本に伝えられたということであったが、経由地のシルクロードには証明する遺跡や痕跡がまったく無く、“偶然の一致”と考える他ないというのが最近の定説で上下端が絞られているのは見た目のバランスを考えての工夫だそうである。
また中門の中央に柱があるのは異例で聖徳太子らの怨霊を閉じ込めておくためとの梅原説を披露してくれた。(写真 確かに・・・・・)
柱に使われた合わせ木の技など興味深い話を聞きながら金堂に歩を運ぶ。
金堂内には本尊の釈迦如来像(国宝)、薬師如来像(国宝)、阿弥陀如来像(重文)が並び辺りを払う。夫々聖徳太子、用明天皇(太子の父)、穴穂部間人皇女(太子の母)、のために造られた仏像で法隆寺が私寺と呼ばれる所以でもある。仏像の表情には面長の口元にかすかな微笑みを浮かべる飛鳥仏の特徴が伺える。昭和24年に焼損した仏教三大壁画の一つとされる貴重な壁画が見事に再現され往時を偲ばせるに充分であった。
金堂と対面する形で聳える高さ32・5mの五重塔は外観のみの拝観であったが裏(北面)に回った内陣には釈迦入滅を悲しむ菩薩や群僧の悲しむ場面を表わした塑像群を観ることができた。
講堂前の燈籠の傍でボランティア氏が得意気にひとくさり・・・。
「この燈籠は徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院が莫大な寺の修理費用を寄進した時のもので“金も出すが口も出す”、屋根瓦に葵の紋章を入れさせたり金堂の軒に龍の彫刻を入れさせたりして幕府の権威をこれ見よがしに示して世の顰蹙を買っている」とのこと。 その残滓を眺めながら確かに・・・・・と納得、いつの世にもそうゆう輩は居るものである。

再び中門を出て東に向かう。梅原猛に拠れば鎮魂祭である聖霊会が行われる聖霊院、東室(僧の宿舎)、妻室(僧の世話人の宿)を見ながら大宝蔵院へ。
何年か前に名古屋市博物館でお目にかかって以来の百済観音像(国宝 写真@)は、背後からも美しい姿を拝観できるように周りをガラスで囲われ完全空調の観音堂に収められていた。優しい眼差しで微笑みかける優雅な八頭身仏に再び会えた喜びを覚える。国宝第一号のこの仏像は朝鮮(百済)から渡来したものとの説もあったが、素材は日本にしかない樟(くすのき)の一木造りで完全に否定されている。
大宝蔵院には夢違観音、九面観音、玉虫厨子、橘夫人念持仏及び厨子など綺羅星の如き国宝や、金堂の火災から唯一焼損を免れた「飛天図」、称徳天皇(天平中期)寄進の百萬塔などが目を引いた。
ボランティア氏が玉虫厨子に使われたという証拠が厨子の隅に小さな断片として残っていることや玉虫の標本を持っていて見せてくれたのには驚く。 また百萬塔の中に収められている阿弥陀経は世界最古の印刷物(木版)だそうだ。

些か興奮気味の胸を押さえながら古い土塀が両側に連なる広い参道を通って東大門へ向かう。東大門は比較的小ぶりだが三つの屋根が重なる珍しい造りである。 この頃には参道は修学旅行の生徒たちで騒々しくなってきていた。
 
@ 百済観音像(法隆寺)
A 救世観音像(法隆寺夢殿)
B 菩薩半跏思惟像(中宮寺)
C 十一面観音像(聖林寺)

さらに東へ150mほど歩いて東院夢殿に着く。
悲劇の皇子、山背大兄皇子(聖徳太子の長子)の焼失宮跡(斑鳩宮)に聖徳太子の遺徳を偲んで739年に建てられた八角のお堂である。その中心部に聖徳太子等身大の秘仏救世観音像(国宝 写真A)が大きな厨子の中に安置されていた。5月18日までの期間限定で公開されお目にかかれるとあって旅の日程を合わせた、いわば今回の旅の目玉の一つなのだ。
900年間白布に包まれ蔵の中に眠っていたが明治初年フェノロサと岡倉天心によって陽の目を見ることになった秘仏中の秘仏で、モナ・リザの微笑に匹敵するとフェノロサを唸らせたものである。この観音像は思いのほか金彩色など残存塗料が鮮やかで、長年の白布による保護効果を思わせる。光背が像の頭部に打ち付けられているとの呪いの人形説(梅原猛)を確かめようと思ったがガラスの仕切りで遮られ叶わなかった。夢殿を建てた僧行信像が傍らにあってびっくりする程の怖い表情で虚空を睨んでいる。気のせいかその辺りにはおぞましい空気が流れていた。

最後に伝法堂を拝観し少々お疲れ気味の足を運んで隣接する中宮寺に向かう。 堂屋の背後に貝塚伊吹の巨木が重ね餅のように聳えている。皇室の門跡寺院である中宮寺の本堂は満開の山吹の黄色い花に囲まれ、黒光りする本尊菩薩半跏思惟像(国宝 写真B)が優しく我らを迎えてくれた。微笑みを浮かべる頬に右手の指先が触れるか触れないか、一瞬の戸惑いを見せているような清純な乙女を思わせる。
ひと時の静寂を味わい中宮寺を後にして南大門に戻った。
次々と大型観光バスから排出される大量の修学旅行生を見て一歩先んじた時間設定を有難く感じたものである。そして何よりも二倍、三倍にも拝観を味わい深く楽しいものにしてくれたボランティア氏の豊かな薀蓄に感謝したい。
2時間半に及ぶ法隆寺拝観を終えて空腹を覚えた旅爺たちは昼食を予約したレストラン太子堂に入る。固辞するボランティア氏を口説いて同席してもらうことに成功、氏を囲んでの昼席は望外の楽しさとなった。
話が弾んで氏は手元の資料鞄から秘蔵の一枚の写真を見せてくれた。それは法起寺に伝わる門外不出の秘仏で唐天竺(インド)もびっくりの男女媾合の仏像であった。

4時間近くも付き合ってもらったボランティア氏と別れ、以降は堀川氏の案内による午後のプログラムに移る。
まずは法隆寺から北東へ1Km程の所にある法起寺に向かった。
こちらは同じ世界遺産と云っても法隆寺とは対照的な小じんまりした構えで人影も少ない。山背大兄皇子開創の古寺で706年の建立、国宝の三重塔以外は全て後に再建されたものである。(左写真)
鄙びた集落の中でひっそりと息づく佇まいは寺運の衰微が却っていにしえの斑鳩の里を偲ばせてくれているようであった。
収蔵庫に収められた本尊の十一面観音像を拝観し、次にすぐ近くにある法輪寺を訪ねる。
この寺も山背大兄皇子を開祖とする聖徳太子のために建てられた622年創建の古寺である。この寺の三重塔も国宝であったが昭和19年の落雷による火災で全焼し、苦難の末昭和50年に宮大工西田常一棟梁の手で復元されたものである。金堂では本尊の薬師如来像、十一面観音像を拝観した。民家の散る田園風景の中にしっとり溶け込む堂宇には法起寺同様何か懐かしさを感じさせるものがある。
聖徳太子とその一族の縁を紡ぐ斑鳩の里を後にして今度は古代王朝の主舞台飛鳥(明日香村)へと向かった。

20分程走って奈良盆地の南端に位置し小高い丘や森が散在するいかにも“まほろば”的な明日香村に到着した。
時計は3時を少し回ったところで、まず訪れたのは聖林寺
藤原鎌足の長子定慧が712年に創建したとされる藤原氏ゆかりの寺である。小高い丘の山腹にあり門前からはなだらかな三輪山から裾野へ飛鳥の眺望が拡がる。(右写真)
本尊の子安延命地蔵菩薩(石造仏)は貫録十分、だがこの寺のスターは観音堂に収められている天平の仏、十一面観音像(国宝 写真C)である。
ウエストラインが引き締まった優雅な姿態は金箔の剥がれが少なく全体的に華やかで、人気の程が知れる素敵な観音様であった。江戸末期大御輪寺(大神神社の神宮寺)から移されフェノロサらにより開扉されたと栞にあるが、明治の廃仏毀釈で山の辺の道端に捨てられていたのを聖林寺の住職が拾ったとの説もあるとは堀川氏の解説。

山道をさらに登って多武峰にある談山神社(標高500m)に参拝した。
門前に今宵の宿、多武峰観光ホテルがあるという趣向である。
険しい山腹を削って造営された神社で藤原鎌足を祭神とする。創建年は不明だが世界唯一の木造十三重塔の創建が678年とあり少なくとも飛鳥期と考えられる。朱塗りの豪華な社殿が際立ち新緑に彩られた山容とのコントラストが素晴らしい。桜は既に葉桜の様相で山吹や八重桜が所々に彩りを加えている。初夏の光量に恵まれたなら如何ばかりかと些か口惜しい。
春秋2回蹴鞠祭が行われるという広場を横切り神廟拝所に登ると、その中に多武峰縁起絵巻が展示されていた。大化の改新(乙巳の変645年)前後の政変の様が克明に描かれていて、さながらドキュメンタリー風紙芝居を見る趣であった。なかでも多武峰で中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我入鹿暗殺計画を談合した場面は文字通り談山神社の由来となっているのである。

昼ごろから次第に雲が厚くなりホテルに入る頃はもう山あいに夕暮れが迫っていた。
明治初年創業の古いホテルだが建物は5階建ての鉄筋コンクリート製、修学旅行のシーズンには200人ぐらいの生徒を収容できるという。近くに宿は他に一軒あるのみと聞く。
今日の客は我ら4人だけで従業員の数の方が多く丁重な扱いに戸惑いを覚える程である。さっそく温泉で疲れを癒したが広い風呂に我等のみで何やら申し訳ない気分だ。
万歩計を持つ武内氏、今日は悠に1万歩を越えているという。二年越しの負傷療養も完治し今日の拝観も全く支障なく心強き限りである。 宴は机を挟んで差し向かい、今日一日を反芻しつついつもと変わらぬ酒宴が始まる。
10時就寝、年寄りは眠りが早い。

(4月24日)
残念ながら雨模様でしかも下り坂の予報である。
早朝スケッチも不発、しからば印象が薄れぬうちにと紀行文の下書きに取り掛かる。他の旅爺たちは風呂に入ったりテレビを見たりのんびりと過ごしていた。
8時、最上階のレストランで熱燗付の朝食を楽しむ。目の前に拡がる談山神社の堂塔や雨に洗われた多武峰の新緑を眺めながら豪勢な気分である。車の運転をお願いしている堀川氏には誠に申し訳なき仕儀ではあるが・・・・・。
そして9時予定通り出発した。
まず山を下りたところにある石舞台古墳を見物する。
築造は7世紀の初めと推定され被葬者は当時最強の実力者蘇我馬子との説が有力である。方形墳だが盛り土が失われて巨大な石組みだけが露出している。外から見えるのは天井石で中に入ってみるとその大きさに圧倒された。(左写真)
古代人たちはこんな巨石をどのようにして運び築き上げたのかと旅爺たちは盛んに首をひねっていたが、土で斜面を造成しコロとテコを使って大勢で動かす推定図が掲示されているのを見て“ウム やっぱり・・・”としたり顔。
傘をさしての見物も他に観光客の姿は無くじっくりと見ることが出来た。

次は聖徳太子生誕の地とされる橘寺へ。
  仏頭山上宮皇院菩提寺とも称される聖徳太子建立七大寺の一つであり法隆寺との関係も深い。
日本書紀に680年焼失の記事があり創建はそれ以前と推定される。
藤原氏の氏寺であった川原寺に門を相対峙させる形で建立された橘寺は、梅原説に拠れば藤原氏による聖徳太子・蘇我氏鎮魂の寺ということになる。後に川原寺は奈良(平城京)に移って興福寺となりその遺構が橘寺門前に残っている。
寺は東向きで遺跡調査によると中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ珍しい伽藍様式(四天王寺様式:百済系)となっている。この寺には目ぼしい仏像は無く堂塔の拝観に留まった。法隆寺夢殿で拝観した秘仏救世観音像は元々この寺にあったとの説もある。

次は藤原氏によって滅ぼされた蘇我氏の氏寺飛鳥寺を訪ねた。
596年蘇我馬子が創建した日本最古の本格寺院で、瓦葺き屋根の寺としても最も古いとされている。本堂には本尊の「飛鳥大仏」と称される増高2.8mの釈迦如来像が右に阿弥陀如来、左に聖徳太子像を従えて鎮座していた。鎌倉期に火災に遭って損傷、後修復したが技術が稚拙で顔や体に痛々しい傷が残っており、首が少し傾き顔の表情も左右で微妙に違うようだ。日本最古の飛鳥仏と云われるのに国宝ではなく重文止りとなっている所以とか。珍しく撮影自由とあって御尊像をカメラに収めさせて貰ったが何か気の毒に思われる。(右写真)
近くに入鹿の首塚があり石塔が立っていた。信じていた皇極帝(女帝)にも裏切られた入鹿の無念の形相を想像しつつ車に戻る。皇極帝の板蓋宮跡も近くにあり昨日の多武峰縁起絵巻を思い出すなど生々しく古代史が甦る。
堂塔は何度も建て替えられて今日に至っているが遺跡調査によれば創建当初は一塔三金堂の独特の伽藍様式(高句麗系)であったという。

続いて本格的に降り出した雨の中、亀形石造物と酒船石を巡る。
出土品から斉明帝期(七世紀中頃)に造られ改修が重ねられてきたと推定され、閉鎖性が高く人工的な空間が構成されていて祭祀を行う場であったとの説が有力。旅爺たちも盛んに首を捻っていたが祭祀用ということで珍しく衆議一決した。
亀形石造物の背後の小高い丘の頂上にある酒船石に刻まれた溝の形に「ナスカの地上絵」を想起したが如何であろうか。
予定の最後は厄除け霊場や石楠花の寺として知られる岡寺である。いつもなら連休(GW)前後が石楠花の見頃だが、御多分に漏れずここでも一週間ばかり開花が早まりちょうど満開を迎えていて、悪天候にも拘らず大勢の観光客で賑わっていた。山腹の伽藍を取り巻くように大量に植えられた石楠花は白やピンクの彩りも豊かな筈だが、残念ながら無情の雨で靄がかかっているように見え、晴れていたらさぞかしと臍を噛む。
本尊は如意輪観音像で像高4・8mの日本最大の塑像である。もう一つの目玉半跏思惟像は京都国立博物館に寄託されていて拝観は叶わなかった。厄除け祈願に夫々の思いを込めて岡寺を後にした。

そろそろお昼時、石舞台近くのレストランで昼食を摂る。
行きがけの駄賃といっては些か不遜だが帰途の途中、三輪山の麓にある大神神社に参拝することにした。標高467mの三輪山そのものが御神体で大国主命(=大物主大神)が自らの魂を鎮めたと記紀神話にある“大和の一之宮”である。御神体が山なので本殿がなく拝殿を通して三輪山を拝む原初の神まつりの姿をとどめているという。
近くに纏向遺跡、箸墓古墳や環濠集落跡などが集中し邪馬台国の王宮であったかと畿内説学者を喜ばせているが、この辺りが飛鳥期に至る前の政治経済の中心地であったことは疑い得ない事実であろう。
杉の大木に囲まれ雨に洗われる石畳の如何にも神域らしい佇まいを辿って拝殿に至り深く頭を垂れる。
かくして旅路の最後を“国造りの神”への祈りで仕上げて、降りしきる雨の中を旅爺たちは家路を急いだのである。

今回の旅は仏像鑑賞主体の従来型から古代史の現場探訪風の色彩が加わり一段と興趣溢れる旅となった。未だ決着がついていない邪馬台国論争に加え古代王朝の成立過程、聖徳太子の遺徳や業績への疑問など古代史を巡る様々な謎の解明は専門学者ならずとも古代史ファンにとって限りない興味の的であり、大和路は永遠の推理の現場なのである。
今回の旅で歩いた現場の距離感や印象が後に接する遺跡や資料の発掘発見、謎解きの論議にきっと役立つに違いない。例えは悪いが犯罪捜査における“現場百回の鉄則”の類である。
改めて今までに読んだ文献を読み直してもみたい。もっと深く面白く理解できるように思われる。
旅爺諸兄に改めて感謝の意を表したい。


(了)