こちらは同じ世界遺産と云っても法隆寺とは対照的な小じんまりした構えで人影も少ない。山背大兄皇子開創の古寺で706年の建立、国宝の三重塔以外は全て後に再建されたものである。(左写真)
この寺も山背大兄皇子を開祖とする聖徳太子のために建てられた622年創建の古寺である。この寺の三重塔も国宝であったが昭和19年の落雷による火災で全焼し、苦難の末昭和50年に宮大工西田常一棟梁の手で復元されたものである。金堂では本尊の薬師如来像、十一面観音像を拝観した。民家の散る田園風景の中にしっとり溶け込む堂宇には法起寺同様何か懐かしさを感じさせるものがある。
20分程走って奈良盆地の南端に位置し小高い丘や森が散在するいかにも“まほろば”的な明日香村に到着した。
時計は3時を少し回ったところで、まず訪れたのは
聖林寺。
藤原鎌足の長子定慧が712年に創建したとされる藤原氏ゆかりの寺である。小高い丘の山腹にあり門前からはなだらかな三輪山から裾野へ飛鳥の眺望が拡がる。(右写真)
本尊の子安延命地蔵菩薩(石造仏)は貫録十分、だがこの寺のスターは観音堂に収められている天平の仏、十一面観音像(国宝 写真C)である。
ウエストラインが引き締まった優雅な姿態は金箔の剥がれが少なく全体的に華やかで、人気の程が知れる素敵な観音様であった。江戸末期大御輪寺(大神神社の神宮寺)から移されフェノロサらにより開扉されたと栞にあるが、明治の廃仏毀釈で山の辺の道端に捨てられていたのを聖林寺の住職が拾ったとの説もあるとは堀川氏の解説。
山道をさらに登って多武峰にある
談山神社(標高500m)に参拝した。
門前に今宵の宿、多武峰観光ホテルがあるという趣向である。
険しい山腹を削って造営された神社で藤原鎌足を祭神とする。創建年は不明だが世界唯一の木造十三重塔の創建が678年とあり少なくとも飛鳥期と考えられる。朱塗りの豪華な社殿が際立ち新緑に彩られた山容とのコントラストが素晴らしい。桜は既に葉桜の様相で山吹や八重桜が所々に彩りを加えている。初夏の光量に恵まれたなら如何ばかりかと些か口惜しい。
春秋2回蹴鞠祭が行われるという広場を横切り神廟拝所に登ると、その中に多武峰縁起絵巻が展示されていた。大化の改新(乙巳の変645年)前後の政変の様が克明に描かれていて、さながらドキュメンタリー風紙芝居を見る趣であった。なかでも多武峰で中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我入鹿暗殺計画を談合した場面は文字通り談山神社の由来となっているのである。
昼ごろから次第に雲が厚くなりホテルに入る頃はもう山あいに夕暮れが迫っていた。
明治初年創業の古いホテルだが建物は5階建ての鉄筋コンクリート製、修学旅行のシーズンには200人ぐらいの生徒を収容できるという。近くに宿は他に一軒あるのみと聞く。
今日の客は我ら4人だけで従業員の数の方が多く丁重な扱いに戸惑いを覚える程である。さっそく温泉で疲れを癒したが広い風呂に我等のみで何やら申し訳ない気分だ。
万歩計を持つ武内氏、今日は悠に1万歩を越えているという。二年越しの負傷療養も完治し今日の拝観も全く支障なく心強き限りである。
宴は机を挟んで差し向かい、今日一日を反芻しつついつもと変わらぬ酒宴が始まる。
10時就寝、年寄りは眠りが早い。
(4月24日)
残念ながら雨模様でしかも下り坂の予報である。
早朝スケッチも不発、しからば印象が薄れぬうちにと紀行文の下書きに取り掛かる。他の旅爺たちは風呂に入ったりテレビを見たりのんびりと過ごしていた。
8時、最上階のレストランで熱燗付の朝食を楽しむ。目の前に拡がる談山神社の堂塔や雨に洗われた多武峰の新緑を眺めながら豪勢な気分である。車の運転をお願いしている堀川氏には誠に申し訳なき仕儀ではあるが・・・・・。
そして9時予定通り出発した。
まず山を下りたところにある
石舞台古墳を見物する。
築造は7世紀の初めと推定され被葬者は当時最強の実力者蘇我馬子との説が有力である。方形墳だが盛り土が失われて巨大な石組みだけが露出している。外から見えるのは天井石で中に入ってみるとその大きさに圧倒された。(左写真)
古代人たちはこんな巨石をどのようにして運び築き上げたのかと旅爺たちは盛んに首をひねっていたが、土で斜面を造成しコロとテコを使って大勢で動かす推定図が掲示されているのを見て“ウム やっぱり・・・”としたり顔。
傘をさしての見物も他に観光客の姿は無くじっくりと見ることが出来た。
次は聖徳太子生誕の地とされる
橘寺へ。
仏頭山上宮皇院菩提寺とも称される聖徳太子建立七大寺の一つであり法隆寺との関係も深い。
日本書紀に680年焼失の記事があり創建はそれ以前と推定される。
藤原氏の氏寺であった川原寺に門を相対峙させる形で建立された橘寺は、梅原説に拠れば藤原氏による聖徳太子・蘇我氏鎮魂の寺ということになる。後に川原寺は奈良(平城京)に移って興福寺となりその遺構が橘寺門前に残っている。
寺は東向きで遺跡調査によると中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ珍しい伽藍様式(四天王寺様式:百済系)となっている。この寺には目ぼしい仏像は無く堂塔の拝観に留まった。法隆寺夢殿で拝観した秘仏救世観音像は元々この寺にあったとの説もある。
次は藤原氏によって滅ぼされた蘇我氏の氏寺
飛鳥寺を訪ねた。
596年蘇我馬子が創建した日本最古の本格寺院で、瓦葺き屋根の寺としても最も古いとされている。本堂には本尊の「飛鳥大仏」と称される増高2.8mの釈迦如来像が右に阿弥陀如来、左に聖徳太子像を従えて鎮座していた。鎌倉期に火災に遭って損傷、後修復したが技術が稚拙で顔や体に痛々しい傷が残っており、首が少し傾き顔の表情も左右で微妙に違うようだ。日本最古の飛鳥仏と云われるのに国宝ではなく重文止りとなっている所以とか。珍しく撮影自由とあって御尊像をカメラに収めさせて貰ったが何か気の毒に思われる。(右写真)
近くに入鹿の首塚があり石塔が立っていた。信じていた皇極帝(女帝)にも裏切られた入鹿の無念の形相を想像しつつ車に戻る。皇極帝の板蓋宮跡も近くにあり昨日の多武峰縁起絵巻を思い出すなど生々しく古代史が甦る。
堂塔は何度も建て替えられて今日に至っているが遺跡調査によれば創建当初は一塔三金堂の独特の伽藍様式(高句麗系)であったという。
続いて本格的に降り出した雨の中、
亀形石造物と酒船石を巡る。
出土品から斉明帝期(七世紀中頃)に造られ改修が重ねられてきたと推定され、閉鎖性が高く人工的な空間が構成されていて祭祀を行う場であったとの説が有力。旅爺たちも盛んに首を捻っていたが祭祀用ということで珍しく衆議一決した。
亀形石造物の背後の小高い丘の頂上にある酒船石に刻まれた溝の形に「ナスカの地上絵」を想起したが如何であろうか。
予定の最後は厄除け霊場や石楠花の寺として知られる
岡寺である。いつもなら連休(GW)前後が石楠花の見頃だが、御多分に漏れずここでも一週間ばかり開花が早まりちょうど満開を迎えていて、悪天候にも拘らず大勢の観光客で賑わっていた。山腹の伽藍を取り巻くように大量に植えられた石楠花は白やピンクの彩りも豊かな筈だが、残念ながら無情の雨で靄がかかっているように見え、晴れていたらさぞかしと臍を噛む。
本尊は如意輪観音像で像高4・8mの日本最大の塑像である。もう一つの目玉半跏思惟像は京都国立博物館に寄託されていて拝観は叶わなかった。厄除け祈願に夫々の思いを込めて岡寺を後にした。
そろそろお昼時、石舞台近くのレストランで昼食を摂る。
行きがけの駄賃といっては些か不遜だが帰途の途中、三輪山の麓にある
大神神社に参拝することにした。標高467mの三輪山そのものが御神体で大国主命(=大物主大神)が自らの魂を鎮めたと記紀神話にある“大和の一之宮”である。御神体が山なので本殿がなく拝殿を通して三輪山を拝む原初の神まつりの姿をとどめているという。
近くに纏向遺跡、箸墓古墳や環濠集落跡などが集中し邪馬台国の王宮であったかと畿内説学者を喜ばせているが、この辺りが飛鳥期に至る前の政治経済の中心地であったことは疑い得ない事実であろう。
杉の大木に囲まれ雨に洗われる石畳の如何にも神域らしい佇まいを辿って拝殿に至り深く頭を垂れる。
かくして旅路の最後を“国造りの神”への祈りで仕上げて、降りしきる雨の中を旅爺たちは家路を急いだのである。
今回の旅は仏像鑑賞主体の従来型から古代史の現場探訪風の色彩が加わり一段と興趣溢れる旅となった。未だ決着がついていない邪馬台国論争に加え古代王朝の成立過程、聖徳太子の遺徳や業績への疑問など古代史を巡る様々な謎の解明は専門学者ならずとも古代史ファンにとって限りない興味の的であり、大和路は永遠の推理の現場なのである。
今回の旅で歩いた現場の距離感や印象が後に接する遺跡や資料の発掘発見、謎解きの論議にきっと役立つに違いない。例えは悪いが犯罪捜査における“現場百回の鉄則”の類である。
改めて今までに読んだ文献を読み直してもみたい。もっと深く面白く理解できるように思われる。
旅爺諸兄に改めて感謝の意を表したい。
(了)