友人達との楽しい酒や仕事仲間の会合・・・など数えきれない想い出が詰まった居酒屋「鳴子」の灯りが店舗事情の急変で消えてしまった。
いつまでも続けられる訳はなく、いつかこの日が来ることは覚悟していたが、元気な女将の姿にまだまだ先のことと思っていた。私にとっては一つの時代が終わってしまったような気がするほどのショックである。多くの鳴子雀たちも心のどこかに穴が開いたような気持ちになっているに違いない。
「鳴子」と私の出逢いは21年前に遡る。
本店営業部に勤務していた平成3年9月4日の日記「こもれび」に初めて暖簾をくぐった時の印象を綴っている。
「・・・・・残暑厳しい一日が終わり関連会社のK部長と彼の行きつけの居酒屋に出掛けた。住吉町を南へ少し行くと一人が歩くにやっと程の狭い路地があり、その奥にひっそりと構えたこじんまりした居酒屋「鳴子」があった。宮城県出身の姉弟がやっている店で東北の酒肴を商っていて、僕の好みに合いそうである。仕事の話を肴にちびりちびりとやっていたが興に乗り杯が重なる。おつな肴に舌鼓を打ちながら“砂金袋のような徳利”が何本も空になった・・・・・。」
当時は弟さんが板場に立ち女将が客間を受け持つという体制であった。
勤務先に近いせいもあって私の「鳴子詣で」はその時からが始まることになる。
仕事疲れの荒んだ心をほっと和ませてくれる店の雰囲気が何ともお気に入りで、明るく快活に迎えてくれる美人女将が密かな私の自慢であった。その時の“砂金袋のような徳利”は今に至るも健在である。
翌4年7月一通の「暑中見舞い」が届いた。
「夕立や雨きき風をみ涼いだき」・・・俳句が記された女将手作りの版画絵葉書で、それからは毎月のように届く葉書が楽しみになる。
絵心一杯の版画に込められた優しさの傍らに凛とした響きのある短歌や俳句が添えられ女将の並々ならぬ才能を感じたものだ。頂いた葉書は全て保存していて150枚は悠に超えるコレクションになっている。私蔵しておくのが勿体ないぐらいの貴重な宝物になっているのである。
平成6年暮れ弟さんが郷里に帰ることになり、今度は女将が板場に立つことになって翌年2月末「家庭料理の鳴子」として新装開店を迎えた。その時貰った挨拶状には
「やれば出来る、まずやってみる事の大切さを知らされました。」とやる気満々であった。仲間でお祝いに駆けつけたが満員の客相手に割烹着姿で奮闘する女将が逞しく感じられたものである。
それからはさらに暖簾をくぐる頻度が高まる。
一人でカウンターに座ることは少なくグループで賑やかに押し掛けるケースが殆どで、誰かを誘って一杯という場合は殆ど「鳴子」であった。値段も手頃だし何と云っても女将の気の利いたおもてなしとさっぱりした気性が魅力で悪くいう人は一人もいない。多い時は10数名にもなるお客を相手に遅滞なく酒肴を用意する手際の良さにはいつも感心させられた。
二階の座敷には女将が若い頃に描いたという油絵の大作があり、創業時に贈られたという高さ50センチ程の大きな「鳴子こけし」が飾られていた。
程なく娘の由貴ちゃんが手伝うようになり“母娘家庭料理の「鳴子」”に変身して一段とアットホームな感じになる。
そんな時、感謝の気持ちを込めスケッチ水彩画「住吉小路と鳴子」を描いて贈ったこともあったが、今日まで10数年もの間店に飾って頂く光栄を得たものである。(冒頭の写真)
また開設したホームページの「我が傾杯マップ」に掲載したのが平成11年12月のことであった。女将の写真が若いので消してくれと頼まれたこともあったがとうとうそのままになってしまい、このページもまた閉じる日を迎えることになってしまった。(我が傾杯マップ「鳴子」)
色々と想い出は尽きないが、私にとって「鳴子」は疲れた心身を癒す「止まり木」であり、隙間を埋める「パテ材」のような掛替えのない存在であった。失うことになって改めてその大きさを実感している。
街の片隅に刻まれたささやかで心和む時の流れは足を運んだ者たちにとって忘れられない記憶となるのであろうが、ふと巷を眺めればこうした家庭的で懐かしい居酒屋の灯が一つまた一つと消え続ける現実がある。止まり木を失った鳴子雀たちは暫く寒空を彷徨うことになった。
昭和62年3月創業以来激しく移ろう世情の中で、気丈に暖簾を守り続け私達に安らぎの時を与えてくれた女将に改めて感謝の気持ちを捧げたい。
※ ※ ※ ※ ※
些か感傷的に過ぎると感じつつも鳴子雀の想いの丈を綴ってみた。
なお、女将に無心をして開業から最後の日まで宮城の銘酒「黄金澤」を運び続けてくれた“砂金袋のような徳利”を想い出の品として譲り受ける。また開店祝いに贈られた「鳴子こけし」を始め伝統こけし9体もお預かりすることになった。
(了)