圧倒的な大きさで我が存在の微小なるを諭すかのように迫る堂塔を拝観、中でも高野山のシンボルである高さ50mの朱塗りの「根本大塔」は圧巻で、本尊の大日如来を始め極彩色の煌びやかな立体曼荼羅が目を奪う。
規模の大きさや資材調達のために工事は捗らず空海入定後50年を経てようやく完成したとされる。度々の火災で焼失し今の大塔は昭和12年に再建されたコンクリート製である。
空海が唐からの帰途明州の浜から投げた法具「三鈷杵(さんこしょ)」が遥か海を越えてこの地に届き松の枝に引っかかったとの伝説を持つ「三鈷の松」では、稀に見つかるという三支の松葉を拾う。付近では何人かの人が腰をかがめ探していたが、一発で見つけた幸運に“何かを持ってる”のではと大切に保存し持ち帰ることにした。
秀吉が寄進した青厳寺が前身というこの寺は真言宗の総本山に相応しく堂々たる構えとスケールを見せている。広壮な主殿内部や国内最大級の石庭「蟠龍庭」を見物、大屋根に載る「天水桶」は類焼を防ぐ智慧でその珍しい光景に切なる願いが感じられた。
そして第一日目の総仕上げは「霊宝館」。高野山に残る数々の仏像の他、文人画の大家池大雅(1,723〜1776)の「山水人物図襖」「山亭雅会図」「高士遊歩図」(いずれも国宝、遍照光院所蔵)を観賞でき山内の空気にうってつけで何やら得をした気分になる。奥之院参道にある芭蕉の句碑は池大雅の筆になるものとのことであった。
高野山には117もの寺院があり参詣者のための宿坊を持つ寺院は52寺を数える。
我らが今宵の宿坊「天徳院」は山内のほぼ中央にあり、背後に高野山大学を望む静謐な雰囲気の宿坊である。この寺は徳川三代将軍家光の妹で前田利常夫人珠姫(戒名・天徳院)の菩提所として建立されたもので加賀藩前田家の菩提寺である。
門を入ると箒目の浮く砂利の庭にもみじの新緑が重なっていた。
玄関先では清めの「塗香(ずこう)」を戴き手のひらに塗り合わせると得も云われぬ清々しい香りに包まれる。
通された部屋からは小堀遠州の作庭「天徳庭園」(重要文化財指定)を眺めることができるという贅沢な趣向だ。世話をしてくれる人が全て男性であること以外は普通の宿屋と変わらない。部屋は55室もあり風呂も大きいがトイレと洗面所は共用、今宵の宿泊客は30名ほどと聞く。
夕食までに一時間半ほどありスケッチブックを手に目を付けておいた東塔付近へ出かけた。前回同様(室生寺)出展作品のモチーフを得るのも密かな目的であったが、日没間近かの斜光に浮かぶ堂塔や杉木立は絵心をそそるに充分な表情を見せていた。(写真―帰宅後描き直したもの)
宿坊に戻り風呂で汗を流して午後6時、辺りはまだ明るく美庭を眺めながらの夕食となる。隣の部屋に用意された膳はまさしく精進料理、お寺の中ではあるが般若湯(酒)が許されておりいつもの宴が始まった。聖なる山の空気の中にあっても我執、常執の固まりのような我等衆生は酔う程によろずの煩悩に絡みとられて浮世の憂さを吐き出すばかり・・・・・・およそ悟りの境地からは無縁のところで生きているらしい。お膳が邪魔になって酒も手酌では気分が盛り上がらず8時頃にはもうお開きとなった。
あとはテレビを見たりして時を過ごすことになるのだが、自分と粕谷氏は般若心経の解釈をめぐってしばらく“論争”に興じることになる。
その論点は「色即是空」「空即是色」の色とは何か。
粕谷氏は“五蘊の色=人間の身体”だといい、自分は“自性無き全ての事象”(玄侑宗久説)と譲らず今夜はここまでと打ち切って就寝した。俄か勉強で何も分かっていない輩(自分)が弁じたててみたとて太刀打ちできるわけもなく触発されただけの生噛りで何か後味のよくない夢枕であった。またいつの日か勉強を深めて相まみえたいものと吹っ切る。
かくして第一日目は終わった。
天候は心配をよそに晴れ間が覗く穏やかな日和で云うことなし。
(5月18日)
夜半にトイレに起き、以来枕元のラジオの深夜便を聞きながらうつらうつらと時を過ごして5時半に起床、標高1000mの山の冷気は厳しくセーターを着込みその上にジャンパーを羽織るという冬の出で立ちで散歩に出た。朝霧も徐々に晴れて眩しいばかりの朝日に恵まれてはいるが、放射冷却とでも云うのか気温は10度をかなり下回っているようだ。
通りにはまだ人影もなく朝の勤行が始まったのか近くの寺院から鐘を鳴らす音が聞こえてくる。冷気が体を引き締め昨夜来のモヤモヤも一気に晴れるような実に清々しい気分で蛇腹道を通り壇上伽藍へ、ゆったりした幸せな感覚が身を包む。
金堂と大塔の風景を簡単にスケッチし宿坊に戻った。
6時半から朝の勤行が行われ約30分間お堂に座りお経を聞き焼香をさせて貰った。
姿勢を正し腹式呼吸で大気(宇宙)を吸引し体内の邪気を吐き出すつもりで気持ちを鎮め、厳粛な空間に身を置く心地よさに浸る。
朝餉の膳も精進料理だがさすがに般若湯を求める声は無かった。。
そして9時天徳院を出発、奥之院入り口近くの喫茶店で熱いコーヒーを飲む。今日は奥之院参拝がメインだが、その前に武内氏がお遍路結願の報告を行った折に投宿したという熊谷寺に寄る。無論お遍路装束に身を固めての供養とお礼の参拝である。熊谷寺は浄土宗開祖法然上人ゆかりの寺とのことだが、仏徒なら何人といえども拒まぬ雅量の大きさが感じられる。
一の橋から奥之院に続く参道を歩き始めた。
鬱蒼とした杉木立の下に朝の冷気が這う道の両側には夥しい数の墓石がひしめく。その数は20万基を越えると云われる。名だたる戦国武将や公家、宗教家などさながら日本史が演じられる舞台を見るようだが、敵味方対立の恩讐を超えて大師の傍で眠る安らぎこそ高野山の懐の深さであり魅力なのであろう。
お墓の間には無数の苔むした「五輪の塔」が見られるのも高野山独特の風景である。刻まれた五つの梵字「空・風・火・水・地」は宇宙の要素を表わしていて、大宇宙つまり大日如来の世界であることを示している。墓の主たちは宇宙の一部となって溶け込み密教の世界に浸りきって遍く光被を受け続けているのであろうか。
樹齢何百年という巨木が空を覆う杉木立も聖域の神秘性演出に一役も二役も買っているようである。おまけに古木に空洞が生じているのかアカゲラの幹を穿つ音がドラミングのように響いていた。(写真)
約2Kmの参道を行くとやがて御廟橋の前に出た。
ここからは正真正銘の霊域である。弘法大師が自ら出迎え見送ってくれる場所とされ、一礼し脱帽して歩を進めた。今もなお生きて衆生を導くという弘法大師に一日二回の食事「生身供(しょうじんく)」が供えられるという。奥之院御供所で調進され、1200年を経た今日に至るまでこの橋を通り燈籠堂に運ばれ続けているのである。
武内氏は般若心経の納経手続きを行い、堀川氏は父母兄の零位を認めた経木を水向地蔵に奉納し水を手向けて冥福を祈っていた。
御廟の拝殿、燈籠堂から地下法場、さらに奥の御廟に参拝、線香を手向け般若心経を読誦する。
大師のお見送りを受け再び御廟橋を渡った。
御茶処(頌得殿)で一服し来た道を戻る。池大雅の手になる芭蕉の句碑(「父母のしきりに恋し雉子の声」)を確かめるつもりであったがすっかり失念、あとの祭りとなった。
一の橋を出たあと近くの刈萱堂(密厳院)に参拝し女人禁制が生んだ悲劇「石童丸伝説」が描かれた30枚程の絵額を堀川氏の講釈付きで観賞した。刈萱堂はその悲劇の父子が修行したお寺である。(その父子像が長野善光寺近くの西光寺にあるとは講釈師殿のおまけ)
徳川家霊台と大門を見物し丁度お昼の時間となって昨日と同じレストランで昼食をとる。(今度は精進定食と般若湯)
時計は午後1時を回りこれにて予定の行程は完了、すっかり満たされた気分になって申し訳けもなく再び堀川氏の長距離運転に身を委ねることとなった。
新緑が輝く初夏の高野山、平日でもかなりの人出かと予想していたものの意外に閑散としており何かにつけ大いに助かったが、そんな中で白人系外人の姿が目に付いた。世界的に閉塞感が漂い始めた今、日本文化の底の深さと東洋的神秘が見直されてきているのであろうとは月並みな解釈だが、ミシュランが“三ツ星”観光地(全国17か所)に指定したこともあるいは効いているのかもしれない。
平成27年、高野山は悠久の星霜を経て開創1200年を迎える。それまでには中門の再建も完了しているのであろう。
午後5時半伏見に無事帰着した。
改めて諸兄の刺激的嚮導に感謝してやまず、とりわけ堀川氏の見事なツアー・コンダクトぶりには言葉もない。
「南無大師遍照金剛」
※ 写真集を
「腕自慢PHOTO−STUDIO」に掲載。
(了)