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78  紅葉みちのく紀行
平成23年11月3日〜5日



(11月3日)八幡平
まだ星が残る5時43分犬山発の電車で名古屋へ向かう。
今日から3日間はダリヤ会待望の東北旅行である。腰痛で心配していた都築さんも大丈夫と “万年青年四人組”の揃い踏みだ。
名古屋駅の集合場所は行楽シーズン真っ只中とあって全国各地に出掛けるツアー客で大混雑、やはりここでも主役は中高年層でその数は圧倒的である。
今回は「紅に染まる東北ベスト・ルート」というふれ込みのツアー旅行で、私達の他は夫婦連れ9組に母娘1組の総勢24人の構成と聞く。
旗を持つ添乗員の後をぞろぞろと新幹線ホームへ・・・まるで修学旅行のようで気恥ずかしい。
7時18分発の「ひかり」に乗車、東北新幹線「はやて」に乗り継いで盛岡まで約5時間電車に揺られることになる。世話をしてくれた加藤さんの尽力で4人だけの向かい合わせの席に座りさっそく“車中宴”が始まった。私達にとってこの程度の時間は全く苦にならず、ともすればテンションが上がりがちになるのを抑えつつ“みちのくの旅”に思いを馳せる。
三日間の天候は「晴れ時々曇り」気温は高めの“小春日和”が続くと予報されていて、その幸運に一段と胸が弾む。

正午過ぎにはもう盛岡に降り立っていた。
あの大震災ではこの辺りも激しく揺れたはずだが、見る限りそれらしい傷跡もなく「がんばれ東北」の看板が目立つ程度である。県都の面目にかけ奮い立っているようだ。
待っていた大型バス(十和田観光)に乗り込みさっそく出発する。
60人乗りのバスに24人で余裕たっぷり、私達は最後部に陣取った。
気温は17度、バスの中はクーラーを効かせるほどである。
東北自動車道で北へ向かったが、意外な近さに岩手山(標高2038m)の雄大な裾野が伸びていた。山の南側だけが富士山に似ているので“南部の片富士”の異名を持つというこの山は、石川啄木が『ふるさとの山に向かいて云うことなし、ふるさとの山は有難きかな』と詠んだこの地方のシンボルである。
山の紅葉は盛りを過ぎた感じだが、このところの暖かさに里の方はまだまだ粘ってくれているようだ。バスは高速道路をひた走り十和田インター(秋田県)で降りる。そして間もなく “絶景のローカル線”と評判のJR花輪線南十和田駅に着いた。列車に乗ってその絶景を楽しもうという趣向である。鄙びた田舎の小さな駅でしばらく待つと2両編成のジーゼル車がやって来た。通学する子供たちの姿もあり意外に車内は賑やかである。
ところが列車は何の変哲もない田園地帯を走るだけで一向に“らしき景色”にお目にかかれない。
降車予定の湯瀬温泉駅に近づく辺りでようやく渓流沿いの鮮やかな紅葉が目に飛び込む。しかしスピードを落としたり車内放送で案内するなどのサービスは一切なく些か期待外れであった。

時計は3時を回りバスは八幡平へ向かった。
途中ナナカマドの見事な並木道を通る。すでに葉は落ち真っ赤な実が残っているだけだが紅葉の盛りを想像するなど、しばらく里の秋を楽しみながら「八幡平アスピーテライン」に入る。
全長27Kmの観光道路は八幡平が典型的なアスピーテ型の火山地帯であることから名付けられたもので、一帯が“火山の博物館”と称せられるほど至るところから硫黄臭の強い水蒸気が噴き出していた。付近には温泉の数も多く旧火口の大沼には地熱発電所もある。
高度が上がるにつれてブナ林が青森トドマツの樹林に変り気温もぐんぐん下がって暗い雲が空を覆い始める。
ちょうど秋田と岩手の県境でなだらかな山容の頂上(標高1613m)にあるレストハウスに到着した。
4時過ぎで気温は3度、身震いするほどの寒さであったが折角だからとレストハウスの屋上展望台に出る。帽子が吹き飛びそうな冷たい風が吹き荒んでいて、素晴らしいはずの眺望も雲下の淡い日光の中にわずかに山なみのシルエットを確認できるだけ。 それどころか俄かに濃霧がたちこめてきて辺りの視界が極端に悪くなった。冬も間近で急変する山の天気の厳しさを体感することになり、ほうほうの体でバスに戻る。
ひょっとして・・・と土産物の売店を覗くと“ミニ提灯”を売っていた。わずか10cmほどの超ミニサイズで観光地の名を付したものだが近頃は売れないせいかなかなかお目にかかれない。蒐集している義兄の喜ぶ顔を想像し思わぬ収穫に嬉しくなる。余談ながら今度の旅ではメンバーの協力もあって角館と中尊寺でも手に入れることができた。

あとは今宵の宿へ、岩手山の裾野にある八幡平温泉郷のリゾート・ホテルへ向かうだけだが辺りにはもう夜の帳が降り始めていた。
途中閉山で廃墟と化した松尾鉱山の建物が夕暮れの中に寒々と沈み込んでいた。最盛期の賑わいと残る廃墟の劇的な落差に憂き世の儚さが漂う。敬愛する天才画家「佐伯祐三」風のモチーフである。
すっかり暗くなった午後5時バスは予定通り宿に到着した。
案内された部屋は4人には少々窮屈な広さであったが、4人一緒の部屋を希望した結果であり致し方もない。さっそく温泉に入り疲れをとる。勿論ダリヤ会の旅伝統の“裸の記念写真”撮影はここでも健在である。
夕食は意外にもバイキングで驚かされたが私達の楽しき宴にさしたる影響はない。
就寝前にもう一度温泉に入る。

11月4日(金) 八甲田と奥入瀬・十和田
年寄りの朝は早い。皆が起き出した5時に揃って“一番風呂”に入る。
6時を過ぎてようやく明るくなってきたものの7時朝食ではスケッチは断念せざるを得ず、カメラを片手にホテル付近を散策することにした。この辺りの紅葉は十分に残っていて心地よい冷気と降りそそぐ朝日の中で輝いている。
同宿した学生ラグビーの選手たちが早朝トレーニングに出るところで交わす挨拶も清々しい。聞けば今日は新人戦が行われる北上市へ移動するとか。
“一本付き”バイキングで朝食を済ませ8時第二日目の観光に出発した。今日は青森へ遠征し終日八甲田、奥入瀬、十和田湖を巡るテンコ盛りのバス・ツアーである。
今日も快晴で気温も高めと願ってもない天候が続く。
昨日夕闇に隠れていた紅葉が埋め合わせとばかりに鮮やかな彩りを見せ、すっかりお馴染みになった岩手山が大きな体で見送ってくれていた。
松尾八幡平インターから東北自動車道に入り一路八甲田を目指す。
山地特有の深い霧に見舞われ晴れてくると、冬を待つばかりの里の田圃が穏やかに広がる。県境の長いトンネルを出ると、たわわに実った一面のリンゴ畑に変わり“津軽富士”(岩木山:標高1625m)が三本槍の堂々たる山容を現わした。

黒石インターで降りブナ林の中を縫うような国道を走って10時過ぎに八甲田ロープウェイ山麓駅に到着、殆ど待ち時間もなく100人乗りの大きなゴンドラで標高1324mの田茂萢岳(たもやちだけ)の頂上へと登った。
気温は5度だが風もなく晴れているのでさほど寒くはない。
昨年新設されたばかりという山頂公園駅屋上の展望デッキに出て雄大な眺望を楽しむ。折り重なるような八甲田の山々を南に、北には青森市街から津軽海峡、さらに遥かにかすむ北海道を望む大パノラマである。
眼下には明治35年青森歩兵第五連隊の雪中行軍で199人という空前の遭難死者を出した丘陵地帯(鳴沢)が望める。遠くから俯瞰する一帯は何故あれほどの惨事が起きたのか不思議に思えるほど穏やかな地形である。新田次郎の「八甲田山死の彷徨」によれば想像を絶する寒気と暴風が襲い不十分な装備と指揮系統の乱れという決定的な人災が重なっての悲劇であった。(写真)
デッキを降りた四人組は20分コースの頂上散策に出る。
花の季節はとうに終わり笹の密生とトドマツが目立つだけの表情の乏しい散策路であったが、あくまで高い秋の空と見え隠れする山脈に爽快な気分を味わう。
山麓駅に戻り再びバスは林道(主要地方道青森田代十和田線)を走り始めた。
ちょうどあの雪中行軍遭難現場を突っ切る道筋で、左に第一露営地、右に大量の遭難者を出した第二露営地とガイドの説明に思わず身を乗り出す。小高い山(馬立場)の上には11人の生存者の一人後藤伍長の銅像がありチラリとその影を遠望することができた。救援を求め引き返す途中で力尽きせめて目印にと立ったまま凍死寸前の状態で救出された伝説の兵士である。
田代平の広い放牧場を通り抜けたが、同時に行われた雪中行軍で弘前三十一連隊が十和田方面から来て通過した逆方向のルートだ。
痛ましい記憶を秘めつつも全山紅葉の美しい風景の中を走ってバスは道の駅「奥入瀬ロマンパーク」に到着した。昼食は地ビールで喉を潤しながらの当地自慢の「煎餅汁」でだし汁の旨さに舌鼓を打つ。

次は奥入瀬渓流観光である。
取っ付きの石ヶ戸から水源の十和田湖まで9kmの渓流を遡るのだが、紅葉の見頃とあって大勢の観光客が詰めかけていた。
私達は3分の2辺りまで登ったところでバスを降り歩くことになった。バスの中からは右に左に渓流と滝を垣間見るだけでイライラが募っていたが、ようやくフリーハンドの有難さを得る。さすがに天下の景観と感心しながらカメラを駆使するものの、何やら追い立てられているようで落ち着かない。途中でガイドが桂の木の落ち葉を拾い甘い香りがすると紹介してくれた。
白糸の滝から銚子大滝まで約20分の散策で、飛沫を飛ばし流れ降りる渓流や変化にとんだ滝に紅葉の枝が絡む景観はさすがに奥入瀬ならではのものである。

バスに戻り休む間もなく今度は十和田湖遊覧だ。
オプショナル・ツアーで24人中20人が申し込んでいると聞く。
観光客で賑わう「子の口桟橋」で三階建の遊覧船「第二八甲田丸」に乗り込んだ。ビュー・ポイントが左舷側に集中するとあって一般室の左側は既に満席状態、そこで一人500円の3階グリーン室券を買う。見晴らしが良くほぼ独占状態で紅葉の十和田湖を存分に楽しもうという訳である。
船は湖の南半分を巡って「休屋桟橋」に至る約50分のコースで、西に傾く陽光に映える御倉、中山両半島の紅葉を楽しませてくれるという趣向だ。十和田湖は典型的な二重カルデラ湖で内輪を縁取る両半島の剥き出しの溶岩壁に彩り豊かな紅葉が被る絶景が連続する。午後になっても風がなく穏やかな紺碧の湖面がさらに彩りを際立たせていた。(写真)
船を降りしばらく湖岸を散策、歩いて往復15分位のところに高村光太郎の「乙女の像」がある。智恵子夫人をモデルにしたと伝えられる彫像は意外に大きく逞しい。

時計は4時を回り今日の観光予定を終えて宿に向かった。今宵は八幡平の南で盛岡に近い雫石高倉温泉とあって約140Kmの距離を懸命に引き返すことになる。
十和田湖から急坂の林道を辿りところどころに紅葉の残るブナやダケカンバの樹林を走る。さすがにツアー・メイトの大半は白川夜船・・・・・・バスは小坂インタ―から東北自動車道に入り夕闇迫るみちのく路をまっしぐら、運転手はここが腕の見せ所とばかりかなり飛ばしている様子だ。
滝沢インターを出る頃にはすっかり暗くなり6時過ぎに無事宿に到着した。

二日目の宿も大きなリゾート・ホテルで私達は二人づつの二室に分れる。添乗員の説明でこのホテルも夕食はバイキングとのことで些かがっくり、フロントのロビーも沢山の客で混雑していた。
夕食前に折角だから一風呂浴びようと浴室に行くと脱衣場が狭く肌が触れるほどの大混雑である。風呂は露天風呂だけで大浴場もなくホテルの大きさに比べて明らかにアンバランス、湯に浸かるのも程々に部屋に戻った。
そして食堂に行くとテーブルがぎっしりと置かれた広い食堂はほぼ満席状態で、なおバイキング料理の前には行列ができている。これは宴どころではないと白けるが気を取り直してトレーを持ち列に並んだ。料理も種類が少ないうえに冷めていて中には品切れのものもある。一応膳を整えて席に着く。酒も引換券を買って別のところで注文するという具合で客の方がせっせと働かされる仕組みなのだ。
宴を始めたものの冷めたまずい料理で飲む酒が旨いはずはない。さすがに“宴の達人たち”もなす術がなくすっきりしないまま終了した。これがツアー旅行の泣き所かと思わぬでもないが、老年夫婦が目立つ他のツアー参加者もこんな筈ではなかったと臍を噛んでいるに違いない。
9時を回って風呂の浴び直しに出掛ける。さすがにこの時間は数人の人影を認めるのみ、持ってきたカメラで恒例のショットを撮ることに成功したのがせめてもの慰めか、露天風呂に隣接する池の錦鯉が申し訳なさそうにすり寄ってきた。

11月5日(土) 角館、平泉中尊寺
“紅葉のみちのく紀行”もあっという間に最終日を迎えた。
天候は下り坂とのことだが見上げる早暁の空には雲一つなく快晴である。
今日も早々とスケッチを断念して付近を散歩することにした。
このホテルもスキー場の他にゴルフ・コースを持つ総合リゾートで夕食のバイキングもさして抵抗がないのかもしれぬ。ならば旅行会社のホテル選択に問題があるということか。駐車場には10数台の大型バスが並んでいた。
7時少し前に朝食、無論バイキングだが夕べと比較すると遥かに上等であった。例によって燗酒を注文したものの想定外なのか時間がかかって卓に並んだ時には食事は殆ど終わっていた。
8時に出発した私達のバスは奥羽山脈を突き抜ける通称“仙岩道路”を角館へ向かう。並行するように秋田新幹線も西に延びていた。

気温は9度、窓外に名残の紅葉を楽しみながら一時間程走って“みちのくの小京都”角館に到着した。
土曜日で観光客も多く武家屋敷が並ぶ通りを思い思いに歩いている。
私達はまず武家屋敷の中でも最も人気がある青柳家を見物することにした。青柳家は戦国大名佐竹氏(北家)の重臣で屋敷は当時の典型的な様式を現在に伝え、武具や家財道具、調度品、玩具、美術品などが展示されていた。
歴史保存されているこの地域一帯には凡そ150本もの枝垂れ桜が植えられている。今はただ黄色い葉をなびかせているだけだが、絢爛と咲き誇る春の風情が偲ばれる。(写真)
また近くを流れる檜木内川の堤防には約2Kmにわたって桜の古木が並び茶褐色の紅葉の帯が伸びていた。
余談ながら10年程前、当地で藤沢周平原作の映画「たそがれ清兵衛」のロケが行われ、以来観光客が年間50万人から150万人に膨れ上がったとか。
再びバスに乗りこのツアーのクライマックス平泉・中尊寺に向かった。
晴れていた空には薄雲が拡がり遠くが霞み始めている。
一般道を南下し大曲インターから秋田自動車道に入った。今度は逆に秋田側から奥羽山脈を縦貫して岩手側に戻ることになるが、この辺りの紅葉はまだまだ魅力を保っている。

北上経由東北自動車道・平泉インターを出て正午過ぎに中尊寺参道の麓に到着した。
世界遺産人気と紅葉の週末が重なって表参道(月見坂)も裏参道も大変な人出で、紅葉に彩られた寺域を一目見ようという善男善女で溢れていた。
私達は急坂の表参道は避けて裏参道の途中までバスで登る“省エネ参拝”を決め込む。
そしてまず目玉の国宝建造物第一号・金色堂に参拝した。覆堂で保護されている金色堂は全て金色で眩いばかりの輝きを見せていた。栄華を極めた藤原三代の祖清衡が贅を尽くし“現世の極楽浄土”を願って築いた金色堂がそのまま永遠の輝きを放っているようである。須弥壇の内に眠る代々の当主らは未曽有の災厄に苦しむ“領国”の現在の姿をどんな思いで見ているだろうか。
『五月雨の 降りのこしてや 光堂』当地を旅した松尾芭蕉の一句である。
讃衡蔵(宝物館)、経蔵、旧覆堂などを見て中尊寺本堂に参拝する。賽銭箱の傍に大震災の義捐金箱が置かれており気持ちばかりと千円札一枚を喜捨した。
お堂を囲む紅葉も参道の古木の間の紅葉も真っ赤に色付いて目を奪うばかりの見事な景観を呈している。(写真)
夢心地の一時間が過ぎ麓に降りて遅い昼食を摂る。今日は岩手の郷土料理「ひっつみ鍋」(だんご汁のようなもの)とザル蕎麦でゆっくり過ごし2時半中尊寺を出発した。
旧奥州街道から再び東北自動車道に入り仙台に向かう。
三日間とも好天に恵まれ全ての観光プログラムを恙なくこなし満足感に充たされての帰途である。心配された仙台市内の渋滞に遭うこともなく順調に仙台駅に到着した。雲も厚くなり夕闇が迫る駅頭の雑踏からは大震災の翳は全く感じられず活気にあふれている。
駅のロビーでは仙台フィルの出張演奏会が開かれていて黒山の人だかり、ちょうど待合の時間に潤いを与えてもらうという幸運もあった。さすがは音楽の街仙台である。
そして4時53分仙台発「やまびこ150号」の乗客となり一路帰路に就いたのである。
東京を過ぎる頃、旅の終わりを待ちかねたように静かに雨が降り出していた。

延べ1000Kmに及ぶ今回のバス・ツアーは観光の数を欲張ったせいか高速道路利用が目立っていたが、運転手の腕と機転に加えてバスガイドの巧みな話術が走行時間の長さをあまり感じさせかった。特に畠山あゆみさんというベテランガイドは豊富な知識と機知に富んだスピーチで飽きさせず、時折自慢の喉を披露したり青森弁を巧みに操って笑いを誘ったり、何よりも押しつけがましいところが少しもないのがベテランの味というものであろう。
それに添乗員の松浦氏も的確・明快な指示誘導で全く齟齬がなく見事な仕事ぶりであった。またツアー・メイトも遵法精神旺盛で予定時間を狂わせるような行動が一切なかったのも見事である。
「紅葉のみちのく紀行」・・・肝腎の紅葉は八甲田や八幡平など高山地帯は終わっていたが、“里の紅葉”は十分に残っており特に平泉中尊寺のそれは素晴らしく絶好のタイミングであった。また何よりも好天に恵まれたことが今度の旅の満足度を大いに高めてくれた。この天佑に心から感謝したい。
また、山一つ越えた海辺には瓦礫の山が聳え夏草が茂る家並みの跡が広がり今なお多数の 行方不明者があることを思い、何気なく過ごしている日常の有難さを痛感する旅でもあった。ツアーの行程では被災の傷跡や復興活動などそれらしき様子が全く見られず幹線道路は完全に復旧し観光地もいち早く整備されている。観光事業から活力を取り戻そうとの心意気であろうか。

ダリヤ会の旅はいつも楽しい印象を以って終わるが、やはり最後は心地よい旅を心掛けてくれる“メンバーへの感謝”に尽きるのである。

(了)