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74 奈良・仏像めぐり(“歴爺”の旅)

平成23年3月10〜11日



(3月10日)
待望の同期四人組の『奈良・仏像拝観の旅』、今風に云えば歴女ならぬ“歴爺の修学旅行”である。名古屋・伏見に午前7時半集合、企画から案内まで引き受けてくれたリーダーの献身的な運転で一路奈良方面に向かった。
東名阪道を快調に走り新しくできたという室生トンネルを通って9時15分第一の目的地「室生寺」に着いた。
室生寺は天平末期(782年)興福寺の高僧賢憬(けんぎょう)の開山と伝えられる真言密教の聖地で“女人高野”の名で親しまれている寺である。

途中の鈴鹿山脈は昨夜来の雪で墨絵のような冬景色、山の中の室生寺ももしやと胸躍らせるや、はたせるかな屋根にうっすらと白雪を乗せた望外のプレゼントに我ら歴爺たちは大喜び・・・・・しかも殆ど人影もなく清らかな信仰の山はまるで独り占め状態である。
仁王門から鎧坂を登る。
両脇を彩るはずの石楠花もまだ固いつぼみのまま、正面に見える金堂(国宝)は平安初期の建立で江戸中期に正面部分を継ぎ足す改造を施したという。
石楠花の咲く頃、鎧坂から金堂を仰ぎ見る景観は室生寺の大きな魅力だが、近時天皇御行幸の際に石段の真ん中に敷設した白木の手摺りが折角の景観を台無しにしたとリーダー氏は盛んに嘆いていた。
金堂内陣には釈迦如来立像(国宝)を始め十一面観音菩薩像(国宝)薬師如来立像、地蔵菩薩立像、文殊菩薩立像など平安初期の仏像がずらりと並び辺りを払う粛然とした雰囲気を漂わせている。弥勒堂では土門拳が“日本一の美男子”と称えたという釈迦如来坐像(国宝)が穏やかな表情で招じ入れてくれた。
さらに階段を登ると優美な入母屋造りの灌頂堂(本堂)が現れた。その左奥には高さ16mの五重塔が深い木立の中で脇侍のように居ずまいを正している。いずれも国宝で室生寺を象徴する景観であるが、屋根にうっすらと雪を被って一段と威厳に満ちて美しい。
五重塔の裏側に回り雪を被った本堂の屋根を見下ろす絶好の構図を見つけて早業スケッチ、重なり合う白雪の屋根を描き切れたら・・・・・と胸をふくらます。(右は水彩画に描き直したもの)
室生寺のフィナーレは奥ノ院で急峻な長い石段を息も絶え絶えに何とか登りきった。切り立った崖の上に舞台造りの位牌堂があり厳しい真言密教の修行道場であることを主張しているようである。御影堂には空海42歳の像が安置されていると聞くが残念ながら非公開で一人の僧が黙々と庭を掃き清めていた。

山を降り待ちかねた昼食は太鼓橋の麓の「橋本屋」で。11時を回ったところだが朝が早かったうえ“厳しい修行?”の後だけに精進料理といい般若湯といい格別の味で、雪の残る赤い欄干を眺めながら最高の気分であった。かつてこの宿を愛した土門拳もさぞかしと広い座敷を見渡すと我々のほかには二人連れの女性の姿があるのみであった。
室生寺の聖域に入る四門の一つ「大野寺」に寄り磨崖仏を拝んで奈良盆地に降りる。

第二の目的地は鑑真の「唐招提寺」だ。
聖武天皇の招聘に応じ来朝した唐の高僧鑑真が戒律の専修道場として759年に創建した律宗総本山である。
南大門をくぐると広場の向うに“平成の大改修”が成った金堂(国宝)が現れた。真新しい“平成の鴟(しび)”が天空をにらむ様はまさに“天平の甍”、現存する最大の天平建築の貫録である。正面に並ぶ8本のエンタシスの柱はシルクロードを越えた悠久の時の流れを感じさせ、屋根の雄大な稜線との絶妙なバランスは溜息が出るばかりだ。
およそ10年の歳月をかけて行われた大改修工事は極力もとの建材を活かし、真新しい漆喰の白壁を除けば殆ど以前の姿と変わりなく他の建造物としっとりと調和している。
堂内には盧舎那仏坐像を本尊に薬師如来立像、十一面千手観音菩薩立像、四天王像などいずれも国宝の天平の仏たちがずらりと並ぶ。 新宝殿には役目を終えた“天平の鴟”や解体修理の際に切り取った軒材の年代調査で「最外738年」とわかったというその軒材などが展示されていた。
講堂(国宝)へ歩を運ぶ。
この建物は平城宮東朝集殿を移築したもので天平期の宮殿建築で唯一現存する遺構である。唐招提寺の魅力は仏像もさることながらやはり金堂や講堂をはじめとして鼓楼(国宝)や校倉造の宝蔵、経蔵(国宝)など天平の建築物が並ぶ威容であり、法隆寺と肩を並べる我が国最高の文化遺産であることを改めて実感した。
鑑真和上像(国宝)が安置され東山魁夷の手になる障壁画「山雲」がある御影堂は残念ながら非公開であった。

聖観音菩薩像(薬師寺)
午後3時、このままホテルに行くのはちと早すぎるというので隣の「薬師寺」を拝観することになった。
薬師寺は天武天皇が妃(持統天皇)の病気平癒を祈願して発願し698年に造立、平城京遷都に伴い現在地に移築された法相宗大本山である。その後の度重なる兵火に東塔以外の堂宇は全て灰燼に帰したが、戦後高田好胤管主の発願により30有余年をかけ復元されたものである。
南門を入るとこちらは一転して眩いばかりに彩色された堂宇が並ぶ。
中門、回廊、金堂、西塔、東塔(国宝)、大講堂・・・・・と“薬師寺伽藍”と称せられる堂々とした構えであったが、創建当時の唯一の建物である東塔だけは場違いな雰囲気で古色蒼然と立ち尽くしている。各層に裳階をつけた三重塔は“凍れる音楽”と称されるほどに美しい建築美を誇り、自分はこんなキラキラした奴らとは違うぞといいたげに胸をそらしていた。
ちょうど特別入堂拝観が行われていて内陣を拝見すると心柱に鉄の箍がはめられているなど至る所に痛みが目立っている。聞けばこの4月から10年の歳月をかけて大改修工事が行われるとのこと、ひょっとするともう見納めになるかも知れず誠に幸運であった。
金堂には見覚えのある仏像が並んでいた。
薬師寺創建時(白鳳期)に作られた金銅仏国宝:薬師三尊像(薬師如来坐像、日光菩薩像、月光菩薩像)で鍍金は失われ黒光りしているが、堂内が極彩色で装飾されているため却ってその存在感が際立っている。中でも日光菩薩像は遥か我が独身時代に現場でスケッチし油絵に描き直したことがある懐かしい“再会”であった。首、腰、膝の三か所を微妙に折り曲げた姿勢に得もいわれぬ魅力を感じたものである。金堂の裏に回ると本尊の台座(須弥壇)に彫られたレリーフを見ることができるようになっており、リーダーの解説によれば遠くシルクロードを経て伝わったオリエント文明のルーツを辿ることができるという。
また東塔と並ぶもう一つの国宝建造物、東院堂には聖観音菩薩像(国宝)があった。(写真)
優しげでそれでいて凛とした気品溢れる表情に惹き込まれ、思わず手を合わせたくなる崇高な雰囲気を持っていた。

これで第一日目の行程を終了し今宵の宿「奈良パーク・ホテル」にチェックイン。春の行楽シーズンには少し間があるのかホテルはひっそりとしていた。 温泉で疲れを癒しいつものような宴に移る。雪の室生寺や薬師寺東塔など望外の幸運を語りながらの地酒の味はまた甘露々々であった。

(3月11日)
奈良・西の京に雪が舞う、今日も寒い一日になりそうだ。
露天風呂などでゆるりと宿の朝を過ごし、しっかりと腹ごしらえをして午前9時最初の目的地「秋篠寺」へ向かった。
伎芸天像(秋篠寺)
この寺も天平期(780年)光仁天皇の勅願により創建された法相宗の古刹である。
南門に回り本堂に向かう。美しい苔に覆われた寺域は思ったより小さく、今は盛りの梅の花に囲まれた本堂(国宝)が現れた。金堂や東西両塔は兵火に焼かれたが残った講堂を鎌倉期に大改修し本堂としたものである。小ぶりだが均整のとれた美しいお堂の中にはお目当ての伎芸天像が天女のような微笑みを浮かべて待っていてくれた。
頭部は天平期生まれだが体部が鎌倉期の制作とあって重要文化財止まり、しかしすらりとした立ち姿と少し頭をかしげたしなやかな様子に人気度はまさに国宝級なのである。(写真)

どんよりとした曇り空から時折風花が舞う中、秋篠寺を辞し奈良公園に向かった。
途中平城遷都1300年を記念して復元された大極殿の威容を望見、広大な平城宮跡に人影もなくまさにお祭りの後といった淋しい風景であった。
対照的に沢山の観光客で賑わう奈良公園、 群れ遊ぶ鹿に迎えられてこちらも法相宗大本山と名乗る「興福寺」の拝観だ。
藤原氏の氏寺として時の権力を欲しいままにした大寺院だけに広大な寺域である。
右手に復元再建中(平成30年完工予定)の中金堂の巨大なテントがある。左手には室町時代に再建されたものの天平の様式を伝える東金堂(国宝)があり、高さ50mの五重塔(国宝)が脇を固めるスケールの大きな景観を見せていた。
東金堂の本尊(薬師三尊像)を拝観後隣接する国宝館へ。
何と云っても興福寺の目玉は阿修羅像(国宝)である。古代インドの神が仏法の守護神になったという密教系のこの仏像は天平彫刻の代表格でスーパー・スター級の仏像なのだ。3つの顔と6本の手を持ち正面の顔は目的に向かう意思の強さを表し、左の顔は唇を噛んで耐える表情、右は深く自分を見つめる表情と解説されていたが、何かを思いつめ自分を見失うまいと必死の少年の表情に感じられた。(写真)
国宝館でのもう一つの目玉は仏頭(国宝)、昭和12年東金堂修理の際に本尊(薬師如来)の台座の中から発見されたという白鳳期の仏像頭部である。銅製で意外に大きく感じられた。また館の中央に旧食堂の本尊であった鎌倉期の傑作「千手観音菩薩立像」(国宝)が圧倒的な大きさと輝きを見せて君臨していた。
その他館内には八部衆像、十大弟子像、金剛力士像(いずれも国宝)など天平の彫刻が綺羅星の如く展示され、華麗に花開いた天平の仏教美術の粋を見る思いである。
さすがに人気度は抜群で館内は修学旅行の生徒など参観者が溢れていた。
阿修羅像(興福寺)
北円堂(国宝)南円堂、三重塔(国宝)などを見て回り昼食をとる。
ここでも 運転してくれているリーダーに気を遣いながら、冷え切った体を温める般若湯の御利益に預かったのは云うまでもない。

さて、いよいよ最後の拝観「東大寺法華堂(三月堂)」である。
東大寺ときたら大仏様に背を向けるわけにはいかない。南大門の運慶、快慶の傑作「金剛力士像」(国宝)に睨まれながら遠く大仏殿におわす盧舎那仏を拝む。
本命の法華堂に向かう前に“奈良のお水取り”で有名な二月堂に回ってみる。テレビで見たことがある情景を思い浮かべながら寺僧が松明を持って駆け上がる廊下や善男善女が火の粉を浴びる場所などを検分する。ちょうど今夜も行われるので大きな松明が用意されていた。週末にクライマックスを迎えるとのことで暗く煙の立ち込める堂内からは荒行の読経が聞こえていた。
そして法華堂へ。
三月堂とも称されるこのお堂は東大寺最古の天平建築(748年?国宝)で寄棟造りの本堂と鎌倉期に付設された入母屋造りの礼堂からなる珍しい構造になっている。繋ぎ目に苦心の工夫が施されているがやはりどう見ても不自然であった。因みに東大寺伽藍のうち国宝となっているのは法華堂(三月堂)、正倉院、転害門のみである。
楽しみにしていた本尊の不空羂索観音立像(国宝)は修理のため入院中で不在、日光菩薩像、月光菩薩像、梵天像、帝釈天像(いずれも国宝)などが穴埋めしていたがやはり役不足は否めず心残りであった。

午後になって降り出した雨はこの頃には本降りとなり急いで車に戻って帰路に就く。
予定の行程を終え時計は2時半を回っていた。
帰りは北へ向かい柳生の里、月ヶ瀬梅渓を通って東名阪道(五月橋IC)に出る。リーダーの並々ならぬご苦労により「歴爺の小旅行」は無事終了したのだが、実は帰路の途中東北から東関東にかけてマグニチュード9.0という超巨大地震が発生し、10mを超す大津波が海岸を襲って万を超す人命が失われるという悪夢のような大災害が起きたのである。
自然の強大な力の前には人間の知恵など抗いようもないことを痛感させられるとともに、沢山の仏像の有難い姿の前に束の間遊ばせてもらったせいか自然現象(大いなるもの)に対する畏敬の念を素直に感じることができる。
拝観した数々の仏たちを思い浮かべながら一日も早く被災地に復興の灯がともるよう祈念するばかりだ。

かくして楽しみにしていた「歴爺の旅」も呆気なく終わってしまったが、名だたる仏像を拝観でき深遠なその魅力にほんの少し触れさせてもらったようなリッチな気分にしてくれた同行諸兄には心より感謝したい。特にお世話になった“リーダー”とは、仏像を語らせたら止まらない程に造詣が深い我らが堀川喜代太郎氏で、仏像の写真も氏の提供によるものであることを付言しておく。

(了)