7月14日(水)
第二日目はいよいよ尾瀬ヶ原トレッキングである。
早朝、明るくなり始めた窓を開けてみる。
雨粒こそ落ちていないが深い雨霧が立ち込め、今にも降り出しそうな湿った空気が澱んでいた。せっかくの尾瀬行も残念ながら雨具を着込んで歩くことになるのかと覚悟を決めて朝風呂に浸かる。
朝食は大広間で摂り、8時半宿が手配してくれた老神観光バスの鳩待峠“シャトル便”(ワゴン車)に乗り込んで出発した。他の宿の夫婦連れ二人が同乗し鳩待峠に向かう。
戸倉の町を過ぎ九十九折れの山道を登るにつれ雨霧も増し雨粒がフロントガラスを打ち始めた。
1時間足らずで鳩待峠(標高1,591m)に着く。
レストハウスで雨具を着込み尾瀬ヶ原に向けて峠を降り始めた。時計の針は9時35分を示していた。
右側通行の木道は雨に濡れて滑りやすく特に下りなので神経を使う。幸い雨も小止みになり風も出てきた。心なしか雲も高くなり明るさを増したようである。予報では曇り時々雨と出ていたが回復の前兆かと期待が膨らむ。
梅雨時とはいえ花の季節を迎えて訪れる人も多く行き交う挨拶も力を得たように明るく響く。
約1時間歩いて10時25分「山ノ鼻」に着いた。
ビジター・センターや山荘、国民宿舎など数棟の建物があり出入りする人影も多く、いずれも本格的な山歩きのスタイルである。
トイレなど小憩の後標高1、400mの尾瀬ヶ原を歩き始めた。
この時期を選んだ最大のお目当てニッコウキスゲが広い湿原のあちこちに期待通りの鮮やかな黄金色を点彩している。雨もどうやら完全に止んだようで霧雲がかかっていた至仏山(標高2,226m)や燧ケ岳(ひうちがたけ 標高2,356m)がくっきりと姿を現し始めた。
そして雲の切れ間からうっすらと青空がのぞき薄日さえ漏れてきたではないか。まったく望外の天候に恵まれた嬉しさに木道を踏む足取りも弾むようである。
昨日から今朝にかけての様子を考えると奇跡としか云いようがない変貌であるとメンバーは口を揃える。
足元にはニッコウキスゲの他ヒオウギアヤメ、オゼヌマアザミ、ワタスゲ、サギスゲ、キンコウカ、咲き遅れのミズバショウなど尾瀬の名優たちが顔を揃えてこの時期ならではの華やぎである。点在する池塘にはヒツジグサやオゼコウホネが可憐な花をつけ注目を集めていた。ついつい見とれて渋滞が起きるほどであった。(写真)
11時20分に折り返しの目途である「牛首分岐」に到着。地図を見ると5.5Kmを2時間弱で歩いたことになる。
メンバーの足取りも好調のようでもう少し「ヨッピ橋」方向に歩を進めニッコウキスゲの群生地を目指すことにした。分岐点近くから遠目にも鮮やかな黄金色の帯が望めるほどである。思うさま咲き誇るニッコウキスゲを存分に堪能したところで引き返すことにした。疲労度と何時悪化するかわからぬ不安定な空模様を考慮しての判断で「牛首分岐」に戻り昼食を摂る。
鳩待峠の観光センターで用意してくれたお握りだが、尾瀬ヶ原という最高の景観の中で食べる味はまた格別であった。
時計は正午を回り復路に入る。
野外学習の小学生が10人ぐらいのグループに分かれガイドや教師に引率されてやってくる。行き交う挨拶も元気良く湿原を吹き抜ける風に似てさわやかであった。
踏みしめる木道を見ると「環H21」の刻印があり環境省所管で昨年改修が行われた部分であることを示している。所々に腐食が進んだ箇所も目立ちメンテナンスの苦労を思う。
12時40分「山ノ鼻」に戻り20分ほど休憩をとって鳩待峠へ向けて出発した。高度差200mの上り3.3Km、尾瀬トレッキング“最後の難関”である。
午後になって雲も少し厚くなってきたようだ。
行程は1時間ほど早めに進んでいるので余裕がある。無理をせずゆっくりと登っていこうと申し合わせたが、狭い木道なので休憩場所も少なく押されるように坂道を登る。
疲れた足を叱咤激励しながら約1時間半をかけてようやく登りきった。時に午後2時30分、途中不覚にも木道を踏み外し右足の向う脛をしたたか強打、転倒の拍子に右手首を軽く捻挫するアクシデントに見舞われる。歩くに支障はなく遅れをとることはなかったが、年長さんでさえ無事ゴールしたというのに我ながら情けない話である。
これで予定のコース全長13Kmを約5時間で歩いたことになり、各メンバーは事前の準備やトレーニングが功を奏したものといたくご満悦の様子であった。
レストハウスでコーヒーを飲むなど一服するうちに天候が急速に悪化し、ちょうど私たちの帰還を待っていたかのように雨が降り出した。まるで私たちのために“梅雨の晴れ間”を用意してくれたかのようで、文字通りの天のお慈悲に感謝の言葉もない。
約束どおり4時に迎えのワゴン車が着き、来るとき一緒だった夫婦連れとともに鳩待峠をあとにした。
いつの間にか雨は本降りになっていた。
宿に戻るやさっそく温泉に浸かり疲れ切った手足をほぐす。今日の客は私たちの他は一組の夫婦のみで貸切のようなものである。
二日目の宴はロビー奥のお休み処「山茶花の間」が用意されていた。椅子席で雰囲気を変え空腹を満たす料理も鶏肉の味噌炊き、鹿肉の刺身、蟹、海老、鮎の唐揚げ、などガラリと趣向を変えたお膳立て。心地よい疲労感に酒も進み話題は勿論尾瀬の素晴らしさに集中、忘れられない思い出になるだろうと称えあう。企画からの苦労も一気に報われる思いであった。
さすがに疲れたか宴がはねた後は全員“爆睡の時間帯”を迎えたようである。
7月15日(水)
最終日、今日は信州上田・塩田平観光である。
爆睡のせいか午前2時に目が覚めた。屋根を打つ雨だれの音が大きく今日も雨模様のようである。イヤホーンでラジオ深夜便を聞いたりしながらうつらうつらと夜明けを待った。
ゆっくり朝風呂を楽しみ昨夜の宴と同じ「山茶花」でお神酒付きの朝食を摂る。
足掛け三日間お世話になった『牧水苑』とも今日でお別れ、何か去りがたい思いを抱えながら清算を済ませる。ピッタリ予算どおりに収まっていたが、昔に比べると酒の量は減っているようである。
女将の丁重なお見送りを受け主人の運転する車で約45分の道のりを沼田まで送ってもらう。話好きの主人からこの地方の話題を聞きながら退屈することなく沼田駅に到着した。どうやら雨は小止みになったようで
高崎で長野新幹線に乗継ぎ11時信州上田駅に降り立った。
今日も幸いにして雨も上がり荷物をコイン・ロッカーに詰め込みタクシーで上田城址に向かう。途中友人の母校上田高校前を通ってもらったが、この学校の正門は上田藩主居館の表門を移築したもので創立135年の名門校の風格をみる。
真田一族の本拠地上田城は無類の謀略と戦術で徳川の大軍を二度にわたって撃退した有名な平城である。東虎口櫓門で下車して真田神社に参拝し本丸濠の桜並木の道を一周した。
徳川軍を相手に奮戦した痕跡は無かったが西面城下への降り口の崖の高さに難攻不落を思わせる厳しさを感じる。
昼食はこの近くにあり蕎麦がうまいと評判の「やぐら亭」を捜し当てざる蕎麦を食べる。
その間に塩田平へ行く観光タクシー(上田タクシー)を呼んだ。
12時15分約束どおりタクシーが来てさっそく値段交渉・・・・・1時間6,850円が規定料金とのことであったが、交渉の結果3時間30分2万円で手を打った。
運転手(兼ガイド)は年配で経験豊かな感じの人、「うまいことやられましたワ。」と苦笑い。
時間と相談しながら次のような道順で塩田平を回遊した。
@ 生島足島神社 | 農民歌舞伎、信玄起請文、夫婦欅 |
A 無言館(美術館) | 絵そのものより戦地に散った画学生の生い立ち、 出征の事情、家族への愛、死への苦悩・恐れなどのコメントが胸を打つ。 |
B 前山寺 | “未完成の完成”と称される三重塔 |
C 中禅寺 | 方三間の阿弥陀堂形式の薬師堂 |
(上田電鉄の旧型車両―丸窓電車の異名(上田電鉄別所温泉駅)) |
D 北向観音 | 「愛染かつらの木」除夜の鐘に祈る二年越しの恋 |
E 安楽寺 | 国宝八角三重塔 |
F 常楽寺 | 天台宗総本山座主の出身寺 |
(塩田平遠望) |
G 大法寺 | 国宝三重塔 東山道から見る姿が良く“見返りの塔”の別称(写真) |
H 東昌禅寺 | 山門、鐘楼の彫刻 |
時折土地の訛りを入れながら楽しい案内をしてくれ、要所で記念写真を撮ってくれるなど効率的で内容のある観光を演出してくれた。
塩田平の中央に位置する別所温泉は温泉宿が集中する賑やかな街だが、ちょうど「岳の幟(たけののぼり)祭」の時期に当たり、色とりどりの幟を下げ先端を弓なりに曲げた竹の木の飾りつけがあちこちに顔を出していた。昔、雨乞いのお礼に男神山の頂上に立てたのが「岳の幟祭」の起こりであるとはガイドの解説である。
午後3時40分上田駅に帰投、今日も観光している間は一切雨に降られることがなく幸運の連続であった。
上田駅から再び新幹線で長野へ、そして特急「しなの22号」に乗り継ぐ。
例によって弁当やビールを買い込んで“車内小宴”に入った。
ここまではほぼ完璧な旅程を踏んできており、充足感に浸りながら後は名古屋への帰路を辿るのみと肩の荷を降ろしたのだが・・・・・。
そうは問屋が卸さず最後に意外なアクシデントが待っていた。
中津川を過ぎたころ車内アナウンスがあり、「集中豪雨で古虎渓付近の雨量が危険水準を越えたため、多治見から先の運転を見合わせている。運転再開にはかなりの時間を要する見込み。」と聞かされる。その後情報らしい情報も無く自宅へ携帯電話をかけると可児市あたりは激しい雷雨に襲われ停電中で広い範囲に避難勧告が出ているという。多治見に着いたら太多線に乗換え名鉄広見線ルートでとも考えたが、この様子では両方ともおそらく不通になっていると思われる。
そのうちに瑞浪の手前釜戸駅でとうとう電車は止まってしまった。
こうなっては致し方もなく豪雨が去り雨量が落ちるのを待つしかない。
9時ころになってようやく古虎渓付近が通行可能となり、多治見以南の安全確認が始まったとのアナウンスがあった。そして30分後に運転が再開され約2時間の遅れで名古屋に到着した。時計は10時を回っていた。
とにかく名古屋へ着けば帰宅の目途が立つ3人と別れ孤軍奮闘が始まる。
結局11時過ぎに運転を再開した名鉄電車で何とか犬山へ辿りつき、家族の迎えで午前1時ようやく我が家に戻ることができた。
とんだ“落ち”がついた今回のダリヤ会の旅、初日こそ雨に祟られたものの二,三日目は奇跡的に雨がやみ、メイン・イベントの尾瀬ヶ原トレッキングは大成功で、連泊した「牧水苑」も期待通りの湯宿で文句なし。行程は最後の集中豪雨による遅れ以外に全く齟齬もなく費用もジパング割引、乗継割引をフルに活用して予算(一人8万円)内に収まるというまずまずのプロデュースであった。
メンバーの協力に感謝するとともに、さっそく筆まめの本領を発揮して「牧水苑」の女将宛にお礼の手紙を書いたものである。
【牧水苑・余話】
若山牧水(1885〜1928)著「水上紀行」より老神温泉「牧水苑」のくだり抜粋
『・・・・・・・老神温泉についた時は夜に入っていた。途中で用意した蝋燭をてんでに点して本道から温泉宿のあるという川端の方へ急な坂を降りて行った。
宿に入って湯を訊くと少し離れていてお気の毒ですがと云いながら、背の高い老爺が提灯を持って先に立った。どの宿にも内湯は無いと聞いていたので何の気もなくその後に従って戸外に出たが、これまた花敷温泉ともちがったたいへんな処に湯が湧き出しているのであった。手放しでは降りることも出来ぬ険しい崖の岩坂道を幾度か折れ曲がってかろうじて川原へ出た。
そしてまた石の荒い川原をたどる。その中州のようになった川原の中に低い板屋根を設けて、その下に湧いているのだ。・・・・・』
若山牧水が大正11年(1922)に訪れた際の紀行文で、文中の“背の高い老爺”は女将の曽祖父にあたるという。また花敷温泉は群馬県北西部草津温泉の近くにあり老神温泉まで約60Km。おそらく前夜はこの温泉に泊まり早朝出発して一日がかりで老神までやってきたものと推察される。
(了)