『可児市下切の可児川左岸の河川改修工事現場で約1800万年前の地層から哺乳類と見られる大型動物の足跡の化石が大量に見つかった。発見者は藤岡比呂志氏(関市立寺尾小学校教頭)と鹿野勘次氏(岐阜聖徳学園大学非常勤講師)で、大小約650個が確認されこの時代の足跡化石群としては他に類を見ない国内最大級の規模である。
現場は可児川河川敷の約300uの泥岩地帯で泥土に記された足跡がそのまま砂に埋もれて化石化したと思われる。周辺は瑞浪層群の平牧累層と呼ばれる新第三紀の地層でサイなどの奇蹄類やシカなどの遇蹄類の足跡と確認された。
大きさは20cm台が最も多く数cmのものや50cmを超えるものもある。
以上が記事の概要で16日(土)午後1時可児市教育委員会主催の現地説明会が開かれると付記されていて、これは面白いぞと“好奇の芽”が疼く。詳報は地元紙(岐阜新聞)に限るとコンビニへ走り場所などの予備知識を蓄える。(右写真は可児川左岸河川敷の発見現場)
そして16日・・・・・晴れ、風は弱いが冷たい。
午後、可児市中心部からやや南に下がった可児川と久々利川が合流する地点に向った。近くの空き地に車を置き鳥屋場小橋を渡る。ちょうど合流地点の左岸には既にかなりの人影があり、河川敷では50人ぐらいがひとかたまりになって説明を受けているようであった。さらに堤防上には同じくらいの人数が列を作って待っているのが見える。
開始予定の1時にはまだ少し間があるが予想外の人出に予定を早めたのであろう。
堤防上の最後尾に並んで待つこと10分、みるみるうちに列が延びざっと見た感じではもう200人は下らない。
2回目のグループに入って河川敷に降りる。
ここ2,3日の雪模様で足元がぬかるみ、貴重な化石が崩れてしまうのではと心配になるほど露出した岩盤が柔らかい感じだ。
さすがに足跡化石が集中する場所にはテープが張り渡されて踏み込めないように保護してあるが、この様子では自然の風雨に晒されるだけでも消滅してしまいそうである。
約300uの広さの中に大小650個の足跡が確認されたとのことで、露出した岩肌には無数の凸凹が認められる。
市の職員が数名出て整理に当たっていてA4版一枚の資料が配られた。
説明に当たっているのは発見者の一人鹿野講師であった。(写真―中央の人)
ハンドマイク片手に語られた話では「地層の年代測定からおよそ1800万年前の新生代新第3期中新世と推定される粒の粗い泥の層(シルト)で、ヨシや立木の化石が見られるところから一帯が水辺の湿地帯であったことがわかり、近くには広大な森が広がっていたと推定される。そこへ動物達が群をなしてやってきて乾いた泥土に足跡が残り、その上に運よく洪水などで黄褐色の砂が被い保存されたと思われる。」「足跡化石を見ると指が2,3,4本と様々であることがわかる。」と足跡を指差しながらさらに説明が続く。
すぐ目の前に2蹄の足跡がありシカの仲間(写真左)と考えられる。3蹄の足跡はサイの仲間、丸っこい足跡は小型ゾウ(写真右)とのことである。
それらの動物が群をなしてのんびりと水辺で憩い、入り乱れている風景を想像し1800万年という途方もない時間の経過を超えて太古の可児に思いを馳せる。
水辺と青空の間には家の屋根やケバケバした看板は消え失せ遥かに青々とした原始林が広がって見えた。
日本人の先祖縄文人の登場はわずかに2万年前に過ぎない。
配付された資料によるとこの地域一帯(美濃加茂盆地)は平牧哺乳動物化石・御嵩の亜炭・木曽川化石林・多様な植物化石・山之上巨大珪化木・木曽川の奇蹄類化石・土田の小型哺乳動物化石などが発掘されていることで知られ、まさに動物達の“楽園”であった。
我に返って足元に目を戻す・・・・・
この貴重な太古の遺跡は今後どうなるのだろうか。参加者の一人も心配そうに口にしていた。
泥岩自体が水や風の浸食に弱いので地表に現れてから半年余りで既に200個近くの足跡化石が消えているという。そのうえ水量が増せばすぐ水没する河川敷にあり保存には多額の費用がかかるので、レプリカを採取し記録を整えて研究材料に供することになるとの見通しのようである。残念な気もするが致し方もあるまい。
次への交代を促されて約20分の見学を終える。
堤防に上がった靴裏の泥土には1800万年もの前の土が含まれている筈で剥がしてしまうのが何か勿体ない気がした。
堤防の行列は更に延びて500人を越しているのではないかと思われる。
(※ 翌日の新聞によれば総計650人が見学に訪れたという。「こんなに来て貰いびっくり!地質学の面白さをわかって貰えたらと思う。」とは鹿野講師の感想であった。)
(了)