この日記で迎えた21世紀、平成13年(2001年)になるとトップページのキャッチ・コピーを『Welcome to my home』に変更、新たに画廊「Web HATA」ページには我が敬愛する
「佐伯祐三特別展示室」を新設した。好きな作品や生涯を紹介する記事、展覧会観賞記、今も残されているアトリエのルポルタージュなどを掲載する。
また毎年出状している漫画年賀状と、戴いた年賀状の中から“これはと思う傑作賀状”を掲載したページ
「年賀状アラカルト」を新設したのもこの頃である。
技術的にも間隔調整用に透明画像(スペーサー)技法、画質を落さず減量する手法、ダウンロード時間短縮のための軽量画像サムネイル法、リンク・ボタンの創作など“より美しくより早く”をモットーに改良を加えていった。
そして9月頃、HTML言語にデザイン面での一層の緻密さや重複技法を加えた「スタイル・シート」(Style sheet)の習得・活用に取り組み始めることになる。
特に画期的な効果をもたらしたのは「画面上の位置の自在化」と「重複機能」で、画像やテーブルを自在にロケートし透過手法や陰影・ボカシ手法を併用して立体的で見違えるような画面に仕上げていくことが出来るようになった。文字や画像のサイズも微調整ができ見映えがよくなる。また最初に規定しておけばあとは簡単な記述で済むという言語記述様式もページ作成上の効率化をもたらしてくれた。以降2年がかりでマニュアルを読みながら各ページの全面的なリニューアルに取り組むことになる。年末時点で103ページ、367ファイル、容量は5.2MBとなっていた。(写真は同年6月時点のトップページ)
明けて平成14年(2002年)はアップロード・ソフトを「FFFTP」(Vector)に変更、引続きリニューアル作業を進める傍ら、佐伯祐三が誕生した光徳寺(大阪)や飛騨ぶり街道の現地調査を行なったり、
「燦々会のページ」や
「掲示板」を新設したり、友人達や姉のホームページへリンクを貼ったり(
「力作ページ・リンク集」)と増補・充実に努めている。(後に「掲示板」はいたずら書きが多くなり停止する。)「日記こもれび」に「保存版」を加えたのもこの頃である。10月にはスタイル・シートとペイント・ショップ・プロの機能を結集してトップページを全面更改した。
また12月に「わたしの義父は貴殿が好きな佐伯祐三の無二の親友山田新一と申します。.....」で始まる一通のEメールを受け取った。発信者は私のホームページを見たという山田新一画伯(1889-1991)の長男安里氏夫人和美さんであった。東京・中目黒でレストラン「オステリア タントタベタリーナ」を経営しておられるとのことでちょうど一年後に妻とともに訪れることになる。山田新一画伯の著書「素顔の佐伯祐三」を紹介され「山田新一展画集」のプレゼントを頂き、後に平成20年6月には三重県立美術館で開かれた没後80年記念展の内覧会とオープニング・セレモニーの招待券を頂く光栄に浴したのである。また九州の女子大生から卒論の参考にと佐伯祐三の死について感想を求められたこともあり、インターネットの威力と魅力を実感する特筆すべき出来事であった。
平成15年(2003年)には画面を分割し夫々の部分を更新できるフレーム機能を使い
「腕自慢PHOT−STUDIO」を開設、カメラ好き・パソコン好きの友人に声をかけて写真の投稿をお願いするページを設けた。また「わが傾杯Map」に掲載していた「花いち」と「みわ」が相次いで閉店となり淋しくなるが、後に「縹」と「たい信」を掲載し面目を保つ。
7月にはトップページをマイナーチェンジし“世相・コメント欄”と“アップデイト情報欄”を分離・新設してほぼ現在のフォームができあがった。(下の写真)
(5) パソコン故障!存亡の危機
順調に成長発展していた筈のその年の末、我がホームページが存亡の危機に立たされることになった。デジカメを新調しそのソフトをインストール中に頼みのパソコンが異音を発し壊れてしまう。まさに晴天の霹靂!急遽3代目の新しいパソコンを購入したが肝心のバックアップ・ファイル(CD)が使い物にならない。
気を取り直し修理に出すため経緯だけでも書き留めておこうと再度MS−DOS画面のトレースを始め、その過程でディスクスキャンなどの要求に対応しているうちに「奇跡」が起きた。パソコン自身が壊れた部分(2箇所)にパッチを当てたりバイパスを作ったりして、どうやら起動できる状態に自らを復帰させてしまったのである。あとは天佑に感謝しつつ慎重にFD(フロッピー・ディスク)でデータを取り出して新パソコンに移す作業を実行して見事にピンチを脱出した。
晴れて平成16年(2004年)元旦、鳩吹山登山で初日の出を拝むことが出来たが、図らずも正月休みは新パソコンのセットアップ作業に追われることになった。この衝撃的な“事件”以降丹念にバックアップを取ることにしている。
なおこの年には銀行時代の先輩でプロを思わせるような高度なホームページを公開していてアドバイスを受けたこともある杉浦正巳氏が病没、リンク集に訃報を入れる悲しい事態を迎えている。
(6) ブロード・バンド(ADSL)へ
そして翌平成17年(2005年)2月末いよいよ退職の日を迎えた。
“サンデー毎日暮らし”となったのを機に懸案のブロードバンド(NTT フレッツADSL/47Mbps)への切替を行ない、月5,300円で使い放題の“定額・高速利用”を実現した。最寄の電話局からの距離に寄り伝送速度が低下し我家の場合は8Mbps程度になるが、従来のISDNに比べ約200倍のスピードアップとなり、さすがにネット・サーフィンもサクサクと快適である。同時に無線ルーターを更新しパソコン3台を無線でネット接続して家族3人それぞれがインターネットやE・メールを活用し楽しむ体制とした。この時点でホームページは179ページ、735ファイルとなり容量は7.66MBに達している。OCNから無料で提供されている容量は10MBで早晩限界に来ると思われ月500円を払って5MBの追加を申し込んだ。
絵画教室に通いだしたのを機会に最近作を紹介する
「一枚の絵」ページを画廊「Web HATA」に新設、
「飛騨の湯どころ味どころ」と題して行きつけの飛騨の宿や食事処、郷土料理などを紹介するページを新設した。「日記こもれび」も紀行文とスケッチなどリタイア後の“気侭な旅の徒然”が幅を利かせ始める。
“旅とスケッチ”は知らず知らずのうちにちょっとした私のライフ・ワークになっているようである。ホームページの容量は10.68MBと膨らんだ。(写真は現在のトップページ)
続く平成18年(2006年)、19年(2007年)は特筆すべきこともなく「日記こもれび」「腕自慢PHOTO−STUDIO」「一枚の絵」などを中心に経常的なアップデイトを続ける。
平成20年6月、愛犬“豆蔵クン”(トイプードル)が家族に加わりさっそくホームページに登場、
「豆蔵日記」として愛くるしいスナップ写真とともに豆蔵クンの目から見た成長の記録を掲載し始めた。
またこの年、長らく病床にあった朋友中村喜幸君が合間に撮った写真を「腕自慢PHOTO−SUTDIO」に送ってくれていたが、薬石功なく8月末に他界し6月の紫陽花の写真が遺作となってしまう悲しみを味わう。
(7) フレッツ光で開設10周年
そして開設10周年を迎える平成21年(2009年)の8月、さらに高速で安定した究極のブロード・バンド「光回線」に変更した。NTTフレッツ光プレミアム(OCN)で無線ルーターを介しての実効速度は10〜20Mbpsでそれ程の実感はないが、光回線が世の大勢であること、料金も殆ど変わらず工事費無料の恩典がある今が替え時と判断したものである。
かくして迎えた10周年、ホームページはページ数305、総ファイル数966、OCNサーバの使用容量は13.27MBという堂々たる“体格”に成長した。
アクセス数は14、000件(月当たり120件余り)に達し、メンテナンスのためのアクセスを差し引いても毎月100件近く閲覧を頂いたことになる。
ホームページの成長とともに過してきた10年間は、仕事の重責に喘ぐ合間に気分転換の時を与えてくれ、サンデー毎日の身には張り合いを持たせてくれた歳月であった。
最近はトップページのコラムと季節の写真、一枚の絵、日記こもれび、豆蔵日記、腕自慢PHOTO−STUDIOなどのアップデイトが私の大切なルーティン・ワークになっている。多分に独りよがりの内容で恥ずかしい気もするが、見ていただけることへの感謝の気持ちを忘れず、自分の生き様を気侭に表現・発信できる楽しさを存分に味わっていきたいと思う。
画面の色構成を考えたり文章の推敲に取り組むのは実に面白く、全く見も知らない閲覧者から思いがけない反応を聞く意外性と驚きもまた格別である。
古希を過ぎいつまでホームページを保持し続けられるかわからないが、好奇の目を失わず感性を磨いて恥ずかしくないホームページを一年でも長く発信し続けたいと思っている。
(了)