■保存版■
保存版ー目次へ戻る
BACK TO <TOP PAGE>

65   道東・秘境の旅

平成21年5月31日〜6月3日


(5月31日)
午後1時50分、雨模様の女満別空港に降り立つ。
JTB「旅物語」のツアーに参加したフルムーンで、知床など道東の秘境遊覧3泊4日の旅である。相棒の提案に乗ったものだが催行決定が遅れて半ば諦めていた旅であった。最新の予報で生憎の空模様と覚悟してきたが、やはり道東の空は厚い雲に覆われ冷たい雨が落ちていた。
気温は8℃さっそくセーターに風防付のヤッケを着込む。まるで真冬並みの出で立ちである。
小さな北辺の空港に集結したツアーは中部国際空港からやってきた総員22名でどうやら催行ギリギリの人数のようだ。北海道の観光シーズンとしてはやや早いことと、やはり新型インフルエンザが影響しているのであろう。目ざとく観察するに夫婦で参加が7組、男二人連が1組、女二人連が3組といったところだが、“秘境”の二文字が効いたか比較的若い顔ぶれも混じっている。

網走近郊の女満別空港は今回で3度目だがターミナル・ビルも建て替えられ設備も綺麗に整備されて以前の鄙びた面影はない。村上さんという息子ぐらいの年の添乗員から説明を受け大型バスに乗り込んだ。座席数にかなりの余裕があり道東を走り回る行程を考えると有難いスケールである。バスガイドは見るからに定年間近の花田さんという女性で期待はずれであったがその分経験や知識は豊富な筈で、それを楽しみに雨の大地を走り出した。
空港を出るやすぐ“人なし、車なし、信号なし”の伸びやかな道が続き、新緑を迎えた季節が雨霧の中に程よく霞んでいた。青々とした麦の絨毯と苗を植えたばかりで暗紫色の地肌むき出しのビート畑が交錯して縞模様の見事なコントラストを描き、それを縁取るように若葉の白樺や唐松林が続く。白樺が最も輝いている季節でどこへ行っても私達の目を慰めてくれることになる。
路傍の笹薮には食べごろの蕗が敷きつめられたようにそれこそ吹きこぼれている・・・・・北の大地はそんな季節であった。
バスは摩周湖に向う。
途中清流を遡る“さくらます”が見られるという「さくらの滝」に寄ったが、水量の増した水しぶきを見るだけで鱒の姿は全く見えずまだ幕が上がっていないようである。
程なく裏摩周展望台に着いたが、この雨模様では致し方もなくまさに“霧の摩周湖”で裏側から眺める絶景を想像するだけ。標高585mの展望台は冷たい風雨に晒され這々の体でバスに逃げ帰る。気温はなんと3℃であった。
この辺りは高山に強い岳樺が群生していて、まだ芽吹き始めたばかりの裸の木肌が白々と痛々しいばかりであった。
砂利道を走ったせいで前輪がパンクするハプニングも北海道ならでは・・・・か。
タイヤを取り替えてバスは摩周湖の伏流水が湧き出しているという「神の子池」に寄る。小さな池だが中央部が“摩周ブルー”といわれるえもいわれぬ青緑色に染まる不思議な池で、この湧き水のために摩周湖の水位が年中一定に保たれているといわれる。(写真)
相棒がこの旅のために新調したデジカメを手にいっぱしのカメラマン気取りで張り切っていた。
細い雨が降り止まぬ午後5時、第一日目の宿は屈斜路湖に近い川湯温泉「御園ホテル」に到着した。硫黄泉として名高い温泉宿で辺りには硫黄の臭いと湯気が立ち込めていた。強烈な酸性で万病に効くというぬるりとした感触の温泉でさっそく疲れをとり、新鮮な海鮮料理が並ぶ和食膳で腹を満たす。思ったより部屋も広く“ツアーの宿としては合格点”とは旅なれた相棒の採点である。
結局第一日目は雨と霧に祟られガイドによる“想像観光”ばかり、明日こそはと願いつつ就寝した。

(6月1日)
早朝4時、白み始めた部屋のカーテンを開けると薄い雲の間に青空が覗いていた。
どうやら天候の回復が早まったようで心が浮き立つ。さっそく起きだして24時間かけ流しの朝風呂へ、無論この時間に人影はなく露天風呂で広がっていく青空を見ながら至福の時を過す。誘われるままに「阿寒国立公園川湯園地」の看板が立つ遊歩道を散策、小川の流れには湯気が立ち朝陽に輝く白樺が美しい。街道筋に店を閉じて久しい荒れたアイヌの土産店があり、油絵のモチーフにどうかと手早くスケッチして宿に戻る。
朝食はバイキングでたらふく腹を満たして7時45分宿を出発した。
弟子屈、標茶、厚岸方面に向け南下、やはり陽光に映える新緑に叶うものはなく、ところどころタンポポで黄金色に染まった牧草畑と白樺林が続く。まだ冬毛の抜けきらぬエゾ鹿も姿を見せ北海道ならではの景色を楽しみながら一時間ほど走って太平洋を望む厚岸に出た。
霧多布に近づくと急に気温が下がり霧が出始めた。湿原の展望台に立った時にはせっかくの眺望も霞みがち・・・・・霧多布だからといって律儀に霧で迎えることもあるまいにと慨嘆。しばらくすると聞き届けてくれたのか霧が風で流され始め湿原の全貌が見えてきた。蛇行する琵琶瀬川を中心に広がる湿原はまだ枯れ草色で緑と花に飾られる季節はもう少し先とか、せめてと探した子育て期の丹頂鶴にもお目にかかれずここでも“想像観光”であった。
しかし売店で食べた“牡蠣の酒蒸し”は誠に甘露で欠かせない旅の利かせ味である。
バスで湿原の間を通り抜けたが春の使者ワタスゲの白い花が咲き始めていた。
一方には厳しい冬を思わせる立ち枯れの風景を横目に風連湖に向う。その間に相棒が走り去るキタキツネを目撃する幸運を掴んだが、私もその方向を追ったものの目にすることは出来なかった。

根室半島を走って根室市街から納沙布岬に向った。
根室市街はライラックがほころび始め背の低い千島桜が咲き残っていた。また北方領土返還を叫ぶ本拠地だけに至る所に看板が目立つ。
白い波頭の荒波が打ち寄せ霧を伴った冷たい風が吹きつける納沙布岬には、四島をイメージした巨大なモニュメントが立ち炬火が燃え、全国の意志を象徴する47都道府県の石を敷きつめた「希望の道」や資料を展示した「北方館」と「望郷の家」などが雑然と並ぶ。霧に霞む燈台の方向から抑揚のない霧笛が間断なく聞こえていた。近くに見える筈の歯舞諸島は霧の中で視認出来ず大きな国後島が意外な近さで横たわっていた。終戦直後には7,348人の日本人が住んでいたというが、手を伸ばせば届くような海峡が銃口の光る国境で引き裂かれているとは信じがたい現実である。指呼の間に父祖の地を哀しく見つめる人々の数も年々急減している。
幸せな旅を続ける私達は岬にある食堂「東光」で特注のウニ丼を食べたが、贅沢に盛られた黄金色のウニはまさに北海道の味である。昼食の後「日本本土最東端到達証明書」が配られたが“本土”の二文字に本当の最東端は択捉島だとの宿願が籠められていた。
バスは半島を逆走し根室海峡を右に北上、野付半島に向う。
海峡から直接吹き付ける寒風で楢や柏の潅木が一定方向になぎ倒されている痛々しい光景が続いていたが、今日の海峡は雨もあがり雲間から陽光が洩れ始めて珍しく穏やかであった。
そのうちに野付(のつけ)半島が姿を現し、その向こうに雪を被った雄々しい羅臼岳が視界に入ってきた。野付半島は内に野付湾(尾岱沼)を抱き10以上分岐する特異な形状の我が国最大の砂嘴半島であるが、年々地盤沈下が進み地球温暖化による海水の上昇が加わっていずれ海底に沈む運命にあるとされている。
半島の中程にあるネイチャー・センターからは専門のガイドが付いて1.5km約1時間のウォーキングが始まった。二班に別れて夫々にガイドが付きイヤホーンで花や鳥の解説を聞きながら砂地に広がる原生花園をゆっくりと歩いた。私達は河口さんという可愛らしいガイドさんを囲んで珍しい話に聞き入りながらさながら“理科・生物”のお勉強である。ここは既に春の盛りを迎えているようでセンダイハギやクロユリが満開であった。説明を受けた花の種類は10指に余る程で密生しているハマナスが咲いたらさぞかしと想像する。
原生花園を過ぎると砂州に架けられた木道を渡りナラワラ、トドワラに歩を進める。満潮時には砂州は海水に沈み木道は海に浮かぶ状態になるという。この辺り昔は楢やトド松が生い茂っていたが海水の浸食で枯れ果て、ところどころに白骨のような残骸を晒していた。木道の先端の方にはやがて倒れ朽ち果てる最後の立ち枯れが数十本逆光の中で墓標のようであった。(写真)
多分に旅の感傷も含まれているが、愚かな人間の業の果てに滅び行く地球の最後を想わせるような凄惨な光景である。
トドワラからは鉄の桟橋を渡って待っていた観光船に乗り野付漁港に戻る。デッキに上がりほぼ360度に半島の影を見渡せる珍しい景色を眺め、国後島や知床半島を遠望する約20分間のミニ・クルーズであった。国後島は半島の最東端から僅か16kmしか離れていないという。さすがに海を渡る風は冷たかった。
余談ながら昨日人気映画『釣りバカ日記』シリーズ最終作品の撮影のために西田敏行、三国連太郎らが近くの中標津空港にやってきて時ならぬ騒ぎになっているという。この辺りの川や海がロケ地に選ばれたのだろうが来年正月封切りの予定と聞く。

これで第二日目の観光日程も終り、宿の羅臼温泉「らうす第一ホテル」に向った。
知床半島の宿泊地はオホーツクに面したウトロが主流で羅臼岳の麓にあるにも拘らず羅臼温泉はいわば裏側である。6時半に到着、らしいホテルはこのホテル一軒だけであとは民宿が数軒という静かな温泉地であった。泊り客は我々ツアー一行だけで温泉も食事も旅情を満たすに十分で、特に山際に三日月が昇り鹿の鳴き声が聞かれる露天風呂は出色で、食事では海鮮料理に加え鹿肉の角煮は珍味であった。二日目ともなるとツアー仲間もすっかり打ち解け会話を楽しみながらの食事であちこちに笑い声が弾んでいた。

(6月2日)
この地方の天気予報が雨と聞いてまさかと訝しんでいたが、夜明けを待って外を見ると予報どおり弱い雨が落ちていた。北海道の6月といっても天候が安定するのはもう少し先になるのであろうと布団に潜り込む。6時半解禁を待ってお気に入りの露天風呂へ行くと既に先客がひとり心配そうに空を眺めていた。ようやく起きだしてきた相棒に疲れはなくやはり旅はよく効く薬のようである。和食膳の朝食を済ませ雨が小やみになったホテルの近くを散策する。1頭のエゾ鹿が私達が近づいても気にする様子もなく夢中で草を食んでいた。
生憎の天気だが今日は待望の“知床遊覧の一日”である。
因みに知床の語源はアイヌ語のシリエトクで“地の涯”の意味と聞く。今でも車も入ることが出来ない秘境である。
午前9時の羅臼峠道路開門に合わせて宿を出発、峠にはまだ積雪が残っていて夜間の通行が禁止されているのである。羅臼岳(1660m)を望む標高738mの峠はやっぱり雨模様で深いガスに覆われ視界が全く効かず、ここでも“このあたりに見える筈観光”に終りバスに乗ったまま通過した。いたるところに分厚い積雪が道路際まで迫り雪崩の危険を感じるほどであった。
この辺りの岳樺を土地の人は“踊り河童”と呼ぶそうだが、その異名どおり苦悶の樹形を晒し峠の頂上付近では這い松の陰に背を屈めて、吹き荒れるブリザードの凄さを物語る光景に息を呑む。
10時頃ウトロ港に着き約500トンの大きな観光船「オーロラ2号」に乗船した。
半島の先端まで往復する3時間45分のクルージングで、せっかくだからと一人600円を払って特別室に陣取る。雨はあがったものの雲が低く垂れ込め霧が出る悪天候のために運行が危ぶまれたが、途中で引き返すこともありという条件付で出港した。半島の山脈は霧に覆われていたが幸い海はベタ凪の穏やかさで、さっそく高さ100mを越す断崖絶壁の連続に目を奪われる。(写真)
海蝕によるオーバーハングの絶壁から幾筋もの滝が直接海面に落ちる様は如何にも知床らしい。
人や獣を寄せ付けない環境は鳥達の楽園でイワツバメ、オオセグロカモメ、ウミウなどが我が物顔に飛び交い、群れて遊ぶイルカの姿も間近に見ることが出来た。“鯨がいる!”と船内放送が伝え目を凝らしたが残念ながら見逃したようであった。この辺りではサケ漁が行なわれていて狭い海辺に張り付くような番屋を見かけるが人影はない。
半島の先端が観光船の折り返し地点だが、海辺には意外に広い野原があり夏には美しい花が咲き乱れるという。
船内には加藤時子の「知床旅情」が流されていた。
帰路に就く頃ようやく霧が晴れてきて山脈の雪渓が姿を見せ始め、雄大な景観を楽しみながらお昼の弁当を食べる。油絵のモチーフを捉えようとカメラを構えたが思うようなスナップは得られなかった。

陸に上がった一行は記念撮影を行ったあと、来た道を峠方向に引き返して今度はネイチュア・ウォッチのハイキングである。
まず知床五湖巡りのうち一湖と二湖を回る1キロ約20分のハイキングは腹ごなしといった程度だ。名前が数字になっているあたりはいかにも北海道らしいが知床の山々からの湧水が溜まってできたものである。静かな湖面が残雪の山々や新緑の森を映し神秘的な雰囲気を醸し出していた。(写真)湖畔には花が終わって大きく葉を広げた水芭蕉の瑞々しい緑が印象的であった。
昨日同僚が親子熊を見たというガイドの話に、或はと思ったが期待はずれに終る。
次はネイチャー・ガイドがつく本格的なもので、知床自然観察センターから「フレペの滝」展望台までの往復2km40分間のハイキングである。2班に別れ私達のガイドは東京出身といういかにも知床を愛し知り尽くしているかのような清々しい青年であった。昔開拓農民の牧草地であったという辺りにはエゾ鹿が群をなしせっせと食事をしている。展望台からはオホーツクの海が一望でき、足下に“乙女の涙”とも称されるフレペの細い滝がオホーツク・ブルーに染まる海面に落ちていた。美味しい草を求めて崖っ渕まで降りていくエゾ鹿をハラハラしながら見守る。ハイリスク・ハイリターンは野生の世界でも道理と見える。
帰路ではやせた溶岩台地に懸命に根を張るも厳しい風雪に耐えかねて倒れ、或は鹿に樹皮を剥がされて立ち枯れやがて朽ちる姿や倒木が土に還ろうとする原始林の有様に、ガイドの説明を聞きながらしばし悠久の大自然の中に身を置く気分を味わう。
時計は5時を回り曇り空には既に夕暮れが迫っていた。
バスに戻り途中オホーツク海に流れ込む「オシンコシンの滝」を見物して3日目の宿阿寒湖畔温泉へと急ぐ。オシンコシンとはアイヌ語で“松ノ木の繁る場所”という意味だそうで、このところの雨で水量が増し豪快な水しぶきをあげていた。
午後8時すっかり暗くなった阿寒湖畔「ホテル御前水」に到着した。
本格的な観光シーズンを迎えた温泉街は煌々と明るくかなりの賑わいを見せていた。
急いで温泉に浸かって夕食の膳につく。他にも大勢のツアー客が来ていて何となく落ち着かぬ上にメインディッシュがジンギスカン鍋ときては些かげんなりさせられる。

食事も早々に切り上げて想い出の「アイヌ部落」へ出掛けた。
名物の火祭りはもう終っていたが、我家の“家宝”である木彫りのレリーフ『アイヌピリカ』を買った店三つの鐘が目印の「熊の家」を30年ぶりに覗いてみた。店頭の雰囲気は余り変わっていないが雑然としていた建物は建て替えられていてすっかり綺麗になっていた。息子だというハンサムな青年が店番をしていたので当時(昭和54年)の話をすると驚いた様子で、彫刻家の父藤戸竹喜氏に関する資料が展示されている地下室を見せてくれたりした。当時38歳であった氏にも、また無理をいって売って貰った女主人(おそらく奥さんであろう)にも逢うことは出来なかった。
(※ このレリーフは藤戸氏の弟子伊藤清典氏の手になるもので、大きな切り株に頬杖をして物想いに耽るアイヌ娘を70cm四方の一枚板に彫りこんだ力作である。一見して惚れ込み粘って15万円で譲り受けたもので現在も居間の最も晴れやかな場所に飾っている。)
呼び込みの賑やかな街で留守番をしてくれているあゆみへのお土産を買って宿へ戻る。
宿はツアー客で満員状態、サービスもそれなりで仕方がない話だが相棒は不満顔であった。

(6月3日)
相棒が早朝6時からの阿寒湖遊覧船でマリモ観察のオプションに参加、私はといえば何が当たったのか夜半から腹痛と下痢腹に悩まされトイレを愛用しながら自然回復を待つ。
相棒が戻った頃にはようやく落ち着く。阿寒湖には朝霧が立ち込めていたが次第に晴れて6月の北海道の天気はこうだと云わんばかりの雲ひとつない快晴となった。昨日この天気ならと恨んでみても始まらないが、今日の知床はどんな様子なのかチョットだけでも見てみたい気がする。
朝食は和食のバイキング、消化の良さそうなものを少なめに摂り、そのあとは二人で湖畔を散策するなどして午前9時最終日の観光に出発した。
飛行機の便が早くほぼ半日の行程だが、まず雄阿寒岳の登山口近くにある「オンネトー」という小さな湖に寄る。雄阿寒と雌阿寒が仲良く並んで湖面に映る景観と五色沼とも称される湖面の色が売り物だが、朝風に小波だってこれも“想像観光”に終る。遅咲きの満開を見せる水芭蕉の群落がせめてもの慰めであった。 バスは阿寒川沿いに通称マリモ国道を南下、すっかり見慣れた新緑の牧草地と白樺林の中を抜けるとやがて釧路湿原が広がってきた。27,000haの広大な面積のこの湿原は水鳥保護のラムサール条約第一号指定として知られる誇るべき世界自然遺産である。北斗展望台に立つと地平線の彼方にどこまでも続いているように見える壮大なスケールで、淡い黄土色と茶褐色の縞模様の湿原はようやく若い緑色を帯び始め、足下の潅木林からは春を謳歌する鳥達のさえずりが聞こえていた。
呆気なく釧路湿原観光を終えてバスは釧路市内に入る。街はライラックの季節を迎えていたが、しばらく非日常の大自然の秘境に接していたせいか人混みや車の列が何やら懐かしく思えてくる。釧路といえばこの間まで釧路川一人旅の「ラッコのクーチャン」が人気を集めていたが、どうやらお嫁さんを貰って根室方面へ転居したらしいとガイドの余話。
北海道の三大市場の一つに数えられる「和商市場」にバスごと乗りつけ昼食(フリー)とショッピング・タイムとなった。腹具合のほうはトイレ休憩の度に駆け込む状況であったが何とか落ち着きツアーメイトに迷惑をかけることはなかった。
ここは主婦に戻ったような相棒の独壇場である。うに、いくら、たらこ、こんぶ等など小まめに店員に確かめながらしこたま買い込んで昼食となる。海鮮お好み丼を旨そうに食べる相棒を横目に下痢の恐怖から覚めやらぬ私は菓子パンをかじる情けないフィナーレとなってしまった。
釧路空港から定刻どおりの中部国際空港行きの直行便(JAL)に乗り、午後4時過ぎに梅雨空のようにどんよりした名古屋に帰着した。ついさっきまでのあの爽快な北海道の青空が夢であったかのような気分になる。

道東の秘境を駆け抜けた四日間、晴れていたら見えるであろう“想像観光”が多かったのは少々心残りではあったが、北辺の大地の空気を存分に吸い込んで帰ることが出来た。特に海と陸から垣間見た知床の大自然や厳しい気象条件を克服して生き延びる動植物の生態には深い感動を覚える。新品のデジカメで楽しんだ相棒もまずまず満足気で、昨年の八重山・離島の旅に続くメモリアル・トリップとなったようだ。
家に帰ると豆蔵が待ちかねたようにじゃれつきさっそくオネダリを始めた。
「3人+1匹」の日常が再開されたのである。

(了)