■保存版■
保存版ー目次へ戻る
BACK TO <TOP PAGE>

63  早春の三陸・下北を行く

平成21年4月5日〜7日


(4月5日)
約一年半ぶりのダリヤ会の旅は加藤さんの肝いりで「三陸・下北への2泊3日」の大旅行である。昨日発射すると予告していた北朝鮮のテポドンは何故か延期になり私たちの旅を待っていたようで全く余計なお世話だ。幸いお天気の方は雨の心配がなく嬉しい晴れマークが並んでいた。
午前5時過ぎに家を出て満開の桜に見送くられ、犬山から中部国際空港への直通電車に乗る。
空港駅で4人が集結、搭乗手続きで携行物チェックに引っかかり難航した私のためにギリギリに駆け込むという想定外の出足。お陰でスケッチ用の鉛筆削りを召し上げられてしまった。
飛行機は定刻どおり順調に飛んで可愛らしい花巻空港に無事着陸した。
総勢37名のツアーで添乗員は楚々として優しそうな鈴木一恵さん、花巻空港からは観光バス(秋北バス)で回ることになるが、ガイドは目のクルッとした山本薫さんで最終日の青森空港まで付き合ってくれることになる。

バスはまず東へ向かい柳田國男の「遠野物語」で知られる遠野町へ。気温15度、まだ梅の季節で桜の蕾は固く枯れ木が広がっているが、田圃や畦道には薄い芽吹きが始まっている。すでに陽光は柔らかく春を迎えるみちのくの風が心地よい。
郷土の民族研究家佐々木喜善の語る昔話を通して民族の古い信仰形態を探り出したとされる「遠野物語」、そこには河童や座敷童(ざしきわらし)、お白さま(蚕)などが登場するが、その河童が棲むという河童淵を見物した。しかし見るところ普通の小川と変わりなく妖怪のいる感じは全くない。
少し歩いて「遠野伝承園」を見学、ちょうど「“遠野物語”百周年記念展」が行なわれていた。主に佐々木喜善に関する資料が展示されていて柳田國男らとの交友の経緯などを知る。園内には東北地方独特の古民家「曲り屋」や水車小屋などが移築されていた。
近くで昼食となり当然に酒のお相伴となるがここでは土地のドブロクを賞味、バスは鉄の町釜石へ向う。 太平洋の波が打ち寄せるリアス海岸を北上、浜街道と別称される国道45号線から雄大な太平洋と入り組んだ海岸線をたっぷりと楽しむ。

午後2時半宮古の名勝「浄土ヶ浜」に到着し、さっそくウミネコ遊覧船「陸中丸」に乗船した。
餌付けされすっかり人を恐れなくなったウミネコが騒がしい鳴き声を発しながら私たちの頭上を縦横無尽に飛び回る。岩礁の間を縫って沖に出るとさすがに風は強く船は大揺れ、岩に砕ける大波が数メートルの高さにも上る荒々しい海上を30分程遊覧した。帰り着く頃にはデッキの上に居た人の殆どが客室内に潜り込んでいた。石英粗面岩の白い岩肌が鋸状に屹立する様は凡そ浄土というには程遠い印象である。
さらにバスで北上し「三王岩」を見物した。30分ほどの時間であったが遊歩道を降り間近かに威容を見て帰りは急坂を登る。4人とも息は切らしているがまだまだ若さが存分に残っている。
そして一路第一日目の宿、岩手県の中央よりやや北にある岩泉町の「ホテル龍泉洞愛山」に向った。
小本川と呼ぶ道路沿いの川は川幅が20〜30mはある大きな川だが護岸工事らしい様子が全くなく雑木林や草の繁った土手が川面すれすれまでせり出し、まさに自然の流れそのもので何か懐かしさを覚える。
午後5時半夕暮れの気配が漂い始める頃目指す宿に到着した。岩泉は温泉場ではなく風呂はさほどの設えもない。
料理はあらかじめ何種類か選んで申し込んであったもので、その名も「陸中の味覚選び膳」、テーブルを囲む椅子式で地酒を酌み交わしながらのいつもの宴になる。
ところが私にまたトラブル・・・宴の最中、入れ歯が壊れるハプニング!下の前歯部分が折れて取れてしまったのである。食べにくいししゃべりにくいでサッパリ・・・・宴後のカラオケもそのせいで取り止めになり誠に申し訳なき次第となった。
ツアー・メイトは全員中・高年で食事の時の様子などを拝見するに前回の旅(草津・鬼怒川・日光)に比べるとやや品格が落ちる感じである。すっかり忘れていた北朝鮮のテポドンはすでに東北地方上空を飛び去ったとのことであった。

(4月6日)
早朝5時に起きだしスケッチを敢行、昨日到着後下見をしておいた場所に急ぐ。坂道を降り町の真ん中を流れる清水川の川原に座り込んでのスケッチ、さすがに東北の朝風は冷たく手もかじかむ程であったが一時間半ほどで何とか描きあげて(右写真)7時からの朝食に合流。熱燗の酒が実に旨く冷えた体が中から暖まる感じであった。
8時ホテルを出発、雲ひとつない好天に恵まれバスはシーサイドラインを文字通り快調に走って、「北山崎展望台」に着く。
海岸から180mの高さにあり海のアルプスとも呼ばれる大断崖が8kmも続くという陸中海岸きっての眺望を楽しむ。今日の太平洋は昨日とは打って変わる静けさで遥かに大海原が広がっていた。
土産に “ブスのコブ”(アイヌのブシー族が住んでいた窪地(コブ)の意)という生菓子を買ったが、遠い昔この辺りはアイヌ人の領域だったのであろう。菓子は意外に家族の好評を得た。
バスに戻り30分ほど北上して今度は鉄道(三陸鉄道北リアス線)の旅である。「はまゆりの咲く普代駅」で一両ぽっきりのジーゼルカーに乗り込むと、運転士や土産売りのおばさんが案内を始めた。景色のいい所へ来ると汽車を止めてくれたりお菓子を配ってくれたりの大サービス・・・・・ご他聞にもれず赤字に悩むローカル線であるが、冬には炬燵列車、春は桜列車に夏は風鈴列車、秋ともなると鈴虫列車を走らせるなど趣向を凝らして懸命である。「パアプル陸中野田駅」までの約20分間はあっという間であった。

再びバスに乗って久慈を過ぎ青森県に入る。
東北新幹線の終点八戸市の港の近くにあるウミネコの繁殖地「蕪島」が次の観光地。頂上に蕪島神社を戴く小高い丘と周辺の岩礁に、約3、4万羽のウミネコがやってくるという。神社は勿論辺りは白い糞のために汚れ放題でひどいことになっているが、今日は風が強いせいか鳥達は海面に浮かび難を避けているようで飛来する数も少なく糞の洗礼は受けずに済んだ。
昼食は八食センター(八戸市)でのフリーとなり私達は『勢登鮨』に入り刺身定食で小宴を張る。何処へ行ってもまずは酒であるが、どこかの国の大臣のように酔っぱらって顰蹙を買うようなことはない。

午後2時出発、一路二日目の宿「薬研温泉」を目指しておよそ160キロの道のりを一気に走破する。
この辺りに高い山はなくヨーロッパの穀倉地帯を思わせる起伏の緩やかな広い農地が延々と続いていた。農家の建物も大きくどことなく豊かさが感じられる風景である。
午後になって風が強くなりあおられた土埃が舞い上がって遠くが霞んで見える程だ。大きな小川原湖が突然姿を見せたり、風力発電の巨大な風車が林立する光景に出くわすなどどこか日本離れした景観が続く。そうかと思えば巨大なタンクが並ぶ石油備蓄基地が現れる。原子燃料サイクル施設のある六ヶ所村であった。
バスは陸奥湾の方にハンドルを切り下北半島を北上する。
今度はどこか北海道に似た未開拓の原野といった風景が拡がる。木立の間には汚れた残雪の塊があちこちに現れ始め、夕暮れとともに急に冷え込んできたようで、いよいよ北のはずれに来た実感が漂う。
風もあり雲に覆われて思いの外寒く、これでは明朝のスケッチは無理かと半ば諦めた。

そんな森の中に赤い屋根のホテルがあった。
「薬研温泉」は鉞状の下北半島の内陸にあり恐山を背にした場所にある。宿はこの「ホテルニュー薬研」と奥に一軒あるのみだが温泉はさすがに正真正銘の一級品で大満足。露天風呂も総檜葉(ひば)造りの本風呂も文句なし、これだけで遥々やってきた甲斐があったと思わせる程であった。
勿論今度も“裸の記念撮影”を忘れず、一緒の浴客も苦笑しながらシャッターを押してくれたものである。
6時半から始まった夕食は、大きな和室に4列縦隊のお膳方式、私たちも横一列に並ぶ形で甚だ勝手が悪い。ツアーの雰囲気を壊すわけにもいかず、湯上りのせっかくの熱燗も殆ど手酌の酒盛りとなった。おまけに目の前に座ったのが極めつけの“品悪婆さん”で、二日目になって狎れて来たのか胸をはだけ大根足を投げ出しての悪い酒ときてはさすがに興醒め、早々に引き揚げて部屋で飲み直しとなる。
料理は当地の名物まぐろづくしの「海峡まぐろ膳」でせっかくの味覚も味わい半ばといったところだが、仲居さんに頼んで膳に出ていた炊き込みご飯をおにぎりにして貰うあたりは旅なれた私たちならではの妙技であった。
風呂に入り直して就寝。

(4月7日)
朝5時、起きだしてみると風もなく穏やかに晴れ上がっていた。
これならいけると手早く着替えてホテルを出る。残雪の中に赤い屋根が印象的なホテルを描き始めた。(左写真)
ところが水彩絵の具を使い出して間もなくパレット上にうっすらと氷が浮かび始める。4月といっても北国の春は半端ではない。氷点下の冷気が刻々と忍び寄る事態に抗しきれず、一応色を置いたところで引き揚げる。冷え切った両手を揉みながら部屋に戻り、そしてその足で檜葉(ひば)風呂へ飛び込んだ。
時計は7時をまわっていたが浴客の姿は一人も無い。檜の香りが匂うような広く美しい風呂を独り占めする豪華な幸運に恵まれ、冷えた体をゆっくりと温めたものである。早朝の人知れぬ“苦闘、奮闘”の末の満ち足りた気分で仲間には悪いがまさに“至福のひと時”であった。

朝食の熱燗も最高で入れ歯の欠けていることなどすっかり忘れる程心身ともにリフレッシュして最終日の行程に臨む。天候も快晴で云うことなし、8時50分ホテルを出発して程なく津軽海峡に出た。ライオンズ・ブルー(暗青色、西武ライオンズのシンボル・カラーで私が勝手に名付けている)の海原の向こうには意外な近さで白雪を頂く北海道が輝いていた。
海岸沿いには鉄道の廃線跡が枯れ草の間に見え隠れするうらぶれた風景が続く。「クマ出没注意!」の看板も目についた。
しばらく走って本州最北端の「大間崎」とまぐろの「大間漁港」に到着した。まぐろと云えば大間と答えるほど全国的なブランドになっている町である。
待ってましたとばかり“エビチャン”こと蛯子良子さんが大漁旗を手に私たちの前に現れた。
この地方で“カッチャ”と呼ばれる地元の主婦5人で始めた町興しの観光ガイドのリーダーで、笑顔が可愛い小太りの元気なおばさんである。さっそくバスに乗り込み快活な津軽弁で町内や「西吹付山展望台」を案内してくれた。360度を見渡せる展望台からは澄み切った大気に恵まれて津軽半島竜飛岬から松前半島、函館山へと続く白銀の大パノラマを楽しむ。
  まぐろ(440キロ)の実物大のモニュメントの前で記念撮影をしたり、テレビに出て人気者になった漁師の家(あばら家と称していたが)の前を通り本人に挨拶させたり、とどめは大間漁協の組合長を引っ張り出してひとしきり「まぐろ釣り談義」をさせるなどエビチャンは大張り切りであった。大間町はNHKの朝ドラ「私の青空」の舞台になった町で、漁協のそばの空き地にはドラマで活躍した見覚えのある派手な衣装のトラックが置かれていた。
さりげなく水産物直販所へ案内され土産を買わされたりしたが、まぐろ漁船の近くまで連れて行ってくれ一本釣りの仕掛けや、釣り上げのタイミング、電気ショックなど臨場感溢れる話を聞く。 “カッチャ・ガイド”は現在3人になっているそうで、その3人が打ち振る大漁旗に見送られて私たちは大間町を後にした。
むつ市で昼食、名物ホタテの「みそ貝焼」を卵とじにしてご飯にまぶして食べたが、これがなかなかの味で印象に残るご馳走であった。
バスは下北半島の“鉞の柄”の部分に当たる西側を南下、途中から見え始めた八甲田の山々が白雪を輝かせ津軽のシンボルらしい威風を示している。野辺地を経て小さな夏泊半島の付け根にある浅所海岸に寄り白鳥の飛来地を見物した。殆どの白鳥が既に北へ飛び去った後で、遅れてしまったドジな白鳥が2羽淋しげに鴨や鴎の間を泳ぎまわり餌をねだって近づいてきた。

3日間の旅も終幕に近づき浅虫温泉で買物をしたりして一路青森空港に向う。
青森まで延長される東北新幹線も開業間近かのようで真新しい路線が見える。また春には珍しく澄み切った空気の中に岩木山が顔を出し、束の間の来客を見送ってくれているようであった。 午後6時青森空港に到着、楽しくガイドしてくれた山本さんともお別れで、「いい思い出ができた、有難う!」と声をかけると大きな瞳が笑っていた。
空港のレストランで「最後の晩餐」を楽しむ。今回で21回(19年間)を数える私達の旅もいつもどおりの屈託のない旅であったが、これからも変わりなく元気で楽しい旅が続けられることを祈るばかりである。
飛行機は定刻どおり無事「セントレア」に着き、今回の企画にあたった加藤さんを始め都築さん、末松さんに心から感謝しつつ家路に就いた。

(了)