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58  南紀・高野山の旅

平成20年10月8〜10日


10月8日(水)
“同窓四人”の旅は昨年の京都・庭園めぐりに続いて今年は南へ下って「南紀・高野山の旅」。その名も『瀞峡遊覧と世界遺産熊野古道・高野山の旅3日間』ツアーに乗っかっての気楽な旅である。
幸い天候に恵まれ3日間とも秋晴れの上天気という予想だ。
JR名古屋駅に集結したツアーメイトは総勢28名(夫婦連れ5組、男性グループ4人、3人、2人、女性グループ4人、2人、家族3人)で無論殆ど熟年層、添乗員はボーイッシュな若い女性である。

JR関西線―紀勢線の特急「ワイドビュー南紀」に乗り込み約3時間の汽車の旅から始まり、さっそくビールを買い込んで楽しい旅の前祝。10月とはいえ名残の夏雲に縁取られる青空の下をひたすら南へと駆け、11時過ぎに新宮駅に到着して大型観光バスに乗り換える。ここからは最終日までバスの旅となるが座席にも余裕があってちょうどいい具合のツアー・スケール、添乗員も纏めやすい人数である。
まずは世界遺産熊野三山のひとつ「熊野速玉大社」へ。
朱色の鮮やかな社殿に見とれるが、あちこちに花盛りで香気を漂わせる金木犀が目立ち、葉脈が縦のみという珍しい「梛(なぎ)の大樹」が神域を引き立てていた。

次は第一日のメインイベント、ウオータージェット船に乗っての瀞峡遊覧である。
“瀞は「とろ」ではなく「どろ」と濁るのだ”と念を押されたりしながら、熊野川沿いの国道を遡り乗船場志古に着いた。弁当を貰いビールを買い込んでの往復約2時間の舟遊びである。
切り立った崖や深い山林の中を溯上、瀞八丁に入って開閉式の屋根が開くと頭上に真っ青な秋空が広がり、深い緑青色に染まる水面からは澄み切った爽やかな風が吹き込む。時折ジェット船の飛ばす飛沫が混じり実に心地よく、目近かに巨岩、奇岩が迫りまさに山峡を分け入る趣であった。
途中、和歌山・奈良・三重の三県が接する地点に廃業した旅館があり上陸して少憩、和歌山県北山村という珍しい飛び地で、木材集散(新宮)の利便性から生まれたものとのガイドの説明であった。
蛇足ながら先般の大雨の影響でまだ水に濁りがあると案内されたが、我が目には十分に堪能できる美しさで“一見の価値”は紛れもなく証明された。

乗船場に戻って再びバスに乗り込み二つ目の熊野三山「熊野本宮大社」詣でに向う。
「熊野本宮大社」は祟神天皇の時代(BC97〜29)の創建と伝えられる霊場で、元々熊野川河畔の大斎原(おおゆのはら)にあったが明治22年の大洪水に遭ったために近くの現在地に移されたものである。熊野造りの社殿は本宮に相応しい風格を備えていて、日本最大と言われる高さ34mの大鳥居が聳え立っていた。
4時を少しまわった頃第一日の宿那智勝浦温泉に到着した。ホテルは那智湾を望む高台にあるが勝浦港の賑わいとは反対側で何の変哲も無い海岸線が延びるのみ、スケッチ用具を持って30分ほど歩いてみたが“空振り”・・・・・あきらめてのんびり温泉に浸かって夕食を待つ。
露天風呂からの眺めはまずまずだが、いつの間にか雲が湧き山に向って吹き寄せられている感じでさすがに雨の多い地方と感心する。
夕食は“ツアー御一行様”が大広間に居並ぶ形の御膳様式で、我々も横一線に座らされてさっぱり盛り上がらず1時間そこそこで切り上げて部屋に戻る。皆でビールを飲みなおしながら今季のリーグ優勝を賭けた注目の巨人阪神戦を観戦、結果は巨人が3−1で快勝し気分良く10時ごろ就寝した。


10月9日(木)
さて第二日目の呼び物は何といっても熊野古道。中でも最も人気のある「大門坂」を歩くとあって胸が躍る。
ホテルを8時30分に出発、10分ほどで大門坂入り口に着く。
“語り部”と称するお爺さんガイドが付き二班に分かれて登り始めた。大門坂は中辺路の最終ポイントで1Km弱の石畳の登り道である。樹齢800年の高さ50mを越す夫婦杉や楠大樹をはじめ道の両側は見上げるばかりの鬱蒼とした樹林で、梢をわたる冷気が全身を包んでくれるようで実に心地よい。徳川八代将軍吉宗が整備したと伝えられる石畳は、霊場を巡る数知れぬ人々の足跡を刻むように磨り減り苔むしている。南方熊楠ゆかりの旅館や熊野九十九王子の最後の多富気王子跡、十一文関跡など立ち止まっては語り部の話に耳を傾ける。杖をつきながらの登坂にはちょうどいい息抜きである。
(註:「王子」とは熊野三山の御子神を祀る祠で熊野九十九王子と称せられた。江戸時代には既にその多くが廃絶し、明治の神仏分離令で拍車がかけられたが近年復旧が進められている。)

一時間程で那智大社の表参道入り口に着いた。
そこから更に四百数十段の石段を登り熊野三山の残るひとつ「熊野那智大社」に参詣するのだが、さすがに息が弾んでくる。隣接する秀吉建立の西国第一番札所「青岸渡寺」を拝観し境内から那智大滝を遠望する。きらびやかな三重塔を手前に見事な景観であった。またお滝拝所から見上げる図は「日光華厳の滝」、「袋田の滝」(茨城県)と並ぶ“日本三名瀑”の名に恥じぬ迫力で、勿論世界遺産の一部となっている。
11時過ぎバスに戻り海岸沿いを串本に向った。
太平洋の荒波が削りだした奇観「橋杭岩」に寄り少憩、強い海風に煽られ打ち寄せる波が岩に散る様は豪快である。さらに足を伸ばして本州の最南端「潮岬」(北緯33°26′、東経135°46′)で昼食、レストランで串本ならでは珍味「鯨の炊き込みご飯」を食べる。食後の腹ごなしに潮岬タワーに登り四周を睥睨、昔は島であったという半島の先端から見る遥かな水平線は心なしか丸みを帯びているようであったが多分錯覚であろう。

串本市街に戻り南岸沿いに国道42号線を白浜温泉に向う。
この辺りは「台風銀座」と呼ばれるほど襲われる確率の高い地方で民家の屋根には瓦の飛散を防ぐために金網がかけられていたり、高潮や津波の被害が大きくなる入り江には「津波注意区間」の標識があり人目を引く。青い海と複雑な岩礁のいりくむ雄大な景色を楽しみながらバスは午後3時半“日本三泉都(別府、熱海、白浜)”の一つ白浜に到着した。
「円月島」、「千畳敷」、「三段壁」と白浜海岸の名勝を巡る。永年の海の侵食によって削られた独特の景観には見とれるばかり、白い砂岩の千畳敷が広くなだらかで女性的なら高さ60mの絶壁が連なる三段壁は荒々しい彫刻を思わせてまさに男性的であった。傾く夕陽に岩肌の陰影を際立たせる様は実に鮮烈でこんな場所で絵筆をとれたら・・・と叶わぬ夢を追う。せめて写真をと何枚かデジカメに収めた。
5時少し前に二日目の宿である丘の上のホテルに到着した。眼下に船山湾と温泉街を見下ろせる見晴らしのいい場所にある。
時間的にスケッチは無理と割り切り部屋に落ち着くやさっそく温泉に浸かる。
大浴場から露天風呂に出るとちょうど真っ赤な夕陽が水平線に沈むところであった。全く意想外の荘厳な天体ショウに居合わせた浴客とともに感歎の声をあげる。沈んで行く太陽に合わせるかのように刻々と色を変える雲ひとつない夕空も圧巻であった。遮る構造物が殆どない露天風呂が嬉しく たくまずして遭遇できた幸運をかみしめる。
夕食は4人掛けのテーブルで、酒を酌み交わしながらのいつもの楽しい宴に戻って時間を忘れる。
気がつくと残っているのは我々だけで、そろそろ・・・と言いたげな視線に追われてお開きとする。
10時就寝。


10月10日(金)
目が覚め時計を見ると午前4時。
いつもの睡眠時間で体調は上々、5時半に起き出して朝風呂を楽しむ。誰もいない露天風呂で雄大な朝の景観を独り占め、空は明るくなっているが湾内や温泉街はまだ灯りが目立つ静けさである。昨日よりは雲が多いようだが雨の心配は全くない。
朝食前の散歩に出る。ゴルフ場と公園が隣接していて恰好の散歩道で吹き抜ける朝風が心地よい。
バイキングの朝食でたっぷりと腹を満たし8時ちょうどにホテルを出発した。
今日は最終日、高野山への“祈りの旅”である。

バスは今までの“潮風”運行から一転して“木の国”の内陸部へ踏み込んで一路“聖地高野山”を目指す。熊野古道のメインルート「中辺路」の始点「滝尻王子」を過ぎるとそこはもう神の領域とされている。
龍神村を経て日高川沿いに深く刻み込まれた渓流と重なる山腹を縫うようにして登っていく。
へばり付くような棚田に生計を頼む杣人の集落が見え隠れしていた。龍神温泉を過ぎ高野龍神スカイライン(全長43Km)に入って一気に標高が上がる。山襞を埋める原生林は赤い木肌の姫しゃらや山桜、ブナ、ツゲなど既に色づく気配を見せていた。一番高いところで標高1280mの標識があったが、遥かに見渡す眺望は見事という外はなくまさに神の領域である。
10時50分バスは標高1000mの盆地に開かれた聖地高野山の「奥の院」に到着した。

開祖弘法大師が63歳で入定、今でも衆生を救い続けているとされる御廟や全国の信者から奉納された万燈籠が輝く燈籠堂のある奥の院は高野山の中でも別格の浄域とされている。
気温は19度で下界とは10度程の差があるといわれるが乾いた空気が爽やかであった。
あまたの観光地と変わらぬ風情にいささか戸惑いを感じつつ、女性ガイドの説明に耳を傾けながら片道1Kmの参道を進む。作衣姿のこのガイドは器用に後ろ向きに歩きながらユーモアたっぷりの講釈で楽しませてくれた。
参道の両側は墓地で各時代のあらゆる階層の人たちの墓碑が杉木立のなかに林立し、名だたる武将や大名の供養塔も目立つ。無縁仏も含めてその数は30万基とも40万基とも云われる。
豊臣秀吉の大ぶりの供養塔のかたわらに粗末な織田信長の供養塔が覗いていた。憎っくき仏敵信長の供養塔などある筈はないと思われていたが、昭和37年古文書の中から信長の戒名に関する記録が発見され調べたところ供養塔の存在が確認されたという。石材の材質が秀吉のものと同質であることから秀吉が旧主信長を思い遠慮しつつ立てたものではないかと推理されている由、この種の話には全く目がないのである。
柳家金語楼や花菱アチャコのユニークな墓碑も目についた。
浄域に杉の巨木が多いのは、江戸時代に墓碑を作れない人達が代わりに植えた杉の木が生長したものだといい深淵な雰囲気を醸し出しているのだが、台風などによる倒木の被害が心配されているとのこと。高さ50mは悠に越え見上げるような杉木立である。
御廟の手前100mあまりのところにある御廟橋からは脱帽、写真撮影禁止である。あれほど饒舌であったガイドが急に静かになった。(写真は御廟橋から燈籠堂を望む)

ここからは弘法大師が付き添ってくれて"同窓四人“は夫々“同行二人”となる。神妙に歩いて燈籠堂の奥にある御廟の前に立つ。案内人の指導で角度45度に手を合わせ「南無大師遍照金剛」を3回唱和して大師との結縁を願う。燈籠堂の地下3mのところにある地下法場には即身成仏された弘法大師が安置されているとされ、白布に映る“御影”にお参りをした。四国八十八ヶ所参りを終えた人たちが満願成就の報告にやってくるのもこの場所である。
蛇足ながら燈籠堂の傍らに納骨堂があったが、収めた骨が一杯になるともう一度焼き直されて弘法大師の傍に納められるというので人気が出ている由、但し御代は不明である。
御廟橋のところに戻り“同行二人”の御礼を深々と表わし、帰途は同じ道を通らぬ“回り供養”で入り口に戻ることになる。所要約1時間の拝観であったが敬虔な参拝者に加えて我々のような観光客も多く“別格の浄域”には少々似つかぬ賑わいであった。
因みに奥の院での墓地の値段は座布団一枚分で100万円、万燈篭一個50万円だそうである。
俗世に還り昼食は観光センターに移動して精進料理を頂く。勿論高野山でも般若湯として許されているビール付である。

高野山には117もの寺院があり宿坊は52箇所、僧侶はおよそ1000人を数えるというまさに信仰の町、そのメイン道路を走って「金剛峯寺」に参拝する。秀吉が母の菩提を弔うために建立した寺で明治の廃仏毀釈の折買い取って高野山の山号金剛峰寺の名を付したもの。現在は全国の高野山真言宗3000寺の総本山であり管長の住居となっている。外観のみの拝観であったが屋根の上に消火用天水桶が乗っていて目を引いた。設備の整った現在は無用の長物になっているが底に穴を開けて水が溜まらないようにし、そのままにしているところがお洒落で面白い。これがほんとのカラオケだとガイドが笑わせていた。
そして午後2時高野山を後にすることになるのだが、奥の院と並ぶ二大聖地と称されている修業道場「壇場伽藍」や大門はバスの窓から垣間見る程度で通り過ぎた。

あとは一瀉千里・・・つづら折の狭い国道を走り下る。
時折高野山へのお参りの道「町石道」(ちょうせきどう)が見え隠れしていた。麓の慈尊院を始点とし高野山まで180町(1町=109m)約20kmを6,7時間かけて登る山道である。一町毎に町石が置かれていることからこの名がある。
一時間ほどでバスは最後の拝観となる「慈尊院」に着く。
香川善通寺から弘法大師を訪ねて来た御母公が女人禁制の高野山には登れず、死を迎えるまでの一年間を過した寺で“女人高野別格本山”とされている。世界遺産に指定されている大師創建の名刹で本尊弥勒菩薩は大師自作との説もある国宝である。地名九度山は大師が御母公を訪ねて月に9回往復したことに由来する。 DVD放映による説明にびっくりしたがこれも時代の流れかと・・・納得しつつ参詣を終える。
近鉄八木駅で降り後は特急で名古屋へ、三日間の旅を振り返りながらの帰途であった。
まずは何よりも楽しくお付き合い頂いた“同窓四人”の諸氏と一滴の雨にも遭うことがなかった天候に感謝したい。

世界遺産、熊野・高野信仰の山巡りであったが太平洋の豪快な海の景観も織り込まれ、また日毎に特色のある旅程となっていて十分に楽しむことができ、時間的にも余裕があってゆったり寛ぐことができた。ホテルの場所が思惑はずれで早朝スケッチが不発に終ったのは残念であったが素晴らしいサンセット・ショウを見られる幸運もあった。
古の昔から神々の宿る山として崇拝の対象となってきた紀伊山地をただ走りぬけたに過ぎぬ旅ではあったが、都の賑わいから僅かに数十キロを経ずして厳しい自然の隔絶された世界が存在する地形の豊かさに驚き、また高野山と熊野三山そして間を結ぶ遍路道の位置関係を実感することもできた。次回は観光客としてではなく一巡礼者として訪れてみたいものと儚くも殊勝な夢を描いている。

(了)