■保存版■
保存版ー目次へ戻る
BACK TO <TOP PAGE>

54  旧八百津発電所

平成20年5月15日


4月のある朝、朝といっても午前3時で真夜中といった方が適当な時間帯に突然目が覚める。
眠れないまま絵画教室で製作中の油絵「旧八百津発電所」2作目を眺めていると、気に入らないところがあちらこちらと浮き出してきて落ち着かない。たまらず起きだし身支度を整え絵の具を引っ張り出して修正に熱中し始めた。
自分には特に珍しくもない昔からの性癖であるが、 こうなると時間の経過は全く意識の外で気がつくともうすっかり明るくなっていた。ああでもないこうでもないと撮ってきた写真を頼りに塗り重ねるうちにどうしても描けないポイントが幾つか・・・・・。

これはもう一度現場へ行くしかない。
さながら『行き詰まったら現場100遍』の刑事ドラマである。
描き始めて三度目になるのだが幸い天気も快晴だ。善は急げとスケッチ用具とデジカメを持って家を飛び出す。といっても朝の日光の角度が描いている絵のそれと一致する頃合を見図らねばならない。途中の喫茶店でモーニング・コーヒーと新聞を読みリズムを整えて現場へと車を走らせた。この辺りが“サンデー毎日族”の強みで若い頃からこんな暮らしを思い描いていたものである。

発電所のある岐阜県加茂郡八百津町は可児市の隣町で現場まで我が家から約20キロ、車で30分の距離である。もうすっかり通い慣れた道で湧き立つような新緑の野山を存分に楽しみながら午前9時半頃到着した。
一帯は木曽川の流域で「丸山ダム」「蘇水峡」として知られる美しい渓谷や湖が拡がり、近くにはこの町出身の元リトアニア大使杉原千畝を記念する「人道の丘」がある。先の大戦時『命のビザ』を発給し6,000人のユダヤ人を救済した人物である。

現役を離れて久しい旧発電所は当時の建物や設備が全て残されていて現在は資料館として整備され余生を送っている。土曜日の筈だが辺りには人影も無く鳥の声と木曽川の水音だけが聞こえる静かな佇まいである。
さっそく確かめたいポイントをスケッチしたりカメラに収めたり納得の行くまで辺りを徘徊した。
描いている対象は資料館になっている大きな本館発電所ではなく、その放水口から出る水を再利用し発電していた施設でその名も「放水口発電所」である。
壁は汚れ手摺りは錆び付き窓ガラスは破れて荒れ放題、中の水車や発電機もむき出しの見るも哀れな発電所なのだ。張り巡らされた電線は垂れ下がり周囲は草茫々だが絵のモチーフとしては恰好の荒れ具合で、これ以上にない魅力を振りまいている(右写真)。
絵画教室の先生もすっかり虜になっている位で絵描きにとってはこちらの方がピッカピカの主役なのだ。
心の奥底に“明日の我が身”と憐憫の情を催しているのかも知れない。
中へ入ってみたいとの誘惑に駆られるが足を踏み外す危険があり残念ながら立入禁止であった。

せっかくなので入館料320円を払って資料館を見学した。
だだっ広い館内に巨大な発電機と蝸牛のような水車が3組鎮座していた。出力9,600kw、明治44年(1911年)から昭和49年(1974年)まで63年間稼動した木曽川水系最古の発電所で国の重要文化財となっている。付随する放水口発電所は出力1,200kwで大正6年(1917年)に完成し本館発電所と運命をともにしている。
資料館の管理人に放水口発電所に入れないかいっぱしの画家気取りで頼んでみたが素気無く断られてしまった。気の毒に思ったのか「丸山ダム五十年の記憶(木曽川と八百津町の今昔)」という小冊子をくれた。それには湖底に沈む集落の移転に絡む苦難が語られており、一昨年の夏に見た水没寸前の徳山小学校の廃墟を思い起こす。ダム建設にまつわる水没集落の悲哀は何処も同じである。
独り占めの贅沢を味わいながらお昼近くまでのんびりと過ごす。
雨上がりの快晴で幾分冷気を含む爽やかな川風が吹き、水面は春の陽射しを吸い込んで緑青色に輝いていた。

帰宅したその日は午後も再び画架に向かいせっせと絵筆を動かす仕儀となったのだが、2枚の絵が出来上がるにはさらに一ヶ月を要する熱の入れようであった。
(冒頭の写真は第1作の放水口発電所全景、背景は資料館となっている本館発電所)

(了)