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53  桜吹雪の犬山祭

平成20年4月5日


天気が良ければ・・・位の軽い気持ちであったが、願ってもない好天に誘われて午前10時40分の電車に乗り犬山へ。ホームページの取材を兼ねて一度はじっくり見たいと思っていた犬山祭で「デジカメ持ってデバカメに・・・・・」といった按配である。

満開の桜が花吹雪を見せ始める丁度いい時期に当たって犬山駅頭は大変な混雑、桜と好天に恵まれた犬山祭は滅多にお目にかかれるものではない。
車両進入禁止措置のとられた遊歩道を掻き分けるようにして本町通方面へ歩き始めた。道の両脇には露店がずらりと並び、どの店にも子供達が群がっていて昔懐かしい祭の風景が伸びている。
犬山城下の広場に着くと既に13台の車山(やま)が曳き揃えられている。そのうちの一台が鳥居の正面に曳き出されこれから針綱神社への「からくり奉納」が始まるところであった。
今回は梶棒の修繕を終えたばかりの車山「西王母」が奉納する番で、からくり人形の舞も謡曲「西王母」とは場内に流れる案内嬢の説明である。余談ながら13台の車山につけられた名前は夫々のからくりに仕組くまれた演目に由来するようである。
すでに広場は観衆に埋め尽くされて立錐の余地もなくシャッターを切るのも容易ではない。
この犬山祭は数えて374回目となる伝統の祭礼で 1635年(寛永12年)、時の犬山城主成瀬隼人正正虎の肝いりで始まったとされている。

「からくり奉納」を見物した後、国宝犬山城(別名白帝城)に足を伸ばす。こちらも大変な人出で城の入り口には長い行列が出来ていた。見慣れたお城だが今日は陽光を弾く白壁がひときわ冴えわたり“遠山の金さんばりの桜吹雪の晴れ姿”である。
見下ろすと木曽川の悠々たる流れに沿って満開の桜をちりばめた城下の風景が春霞の中に広がっていた。
因みに国宝犬山城は1537年(天文6年)織田氏により創建され、江戸時代初期1617年(元和3年)に尾張藩の付家老成瀬隼人正正成が城主となり代々成瀬家が受け継いできた。1935年(昭和10年)国宝に指定されたが、彦根、姫路、松本と並ぶ国宝4城の中で最古の城である。

再び広場へ戻るとちょうど舟形の車山「浦島」がからくりを始めるところであった。
“浦島太郎が竜宮城の乙姫様から玉手箱を貰い、開けた途端に白煙が立ち昇りたちまち白髭の翁となる・・・・”お伽話そのままの筋書きで演じられたが、衣装も華麗でなかなかの見ものである。からくりを終えた車山は順次犬山駅前広場に向けての曳きまわしに移るのだが、曲がり角での “車切り”も見もので法被姿の若者達が車山に取り付き大きな掛け声とともに梶棒を押す。無事曲がり終えると観衆から拍手が起こっていた。やはり祭には元気な若者がよく似合う。
缶ビールと串焼きの立ち食いで腹を癒したところで広場を後にする。堀端沿いに木曽川に出て桜並木の下を花見をしながらのんびりと犬山遊園駅へ向った。
木曽川の岸辺には散った桜の花びらで“花筏”が出来始めていた。
一人の勝手気侭な祭見物もなかなかおつなものである。

○   ○   ○

【犬山祭・一口メモ】
犬山祭は第一日目が「試楽祭」でからくり奉納、街中への練り、提灯で飾った「夜車山」へと続く。明日の第二日は「本楽祭」、針綱神社での祭事やからくり奉納が行われるが、好天続きで大変な人出が予想される。
曳き揃えられた13台の車山の創建年を調べると、祭礼が始まった頃から参加したと思われる「應合子」と「眞先」を筆頭に11台が江戸初期(1600年代)に建造されている。(下表参照)
精巧華麗な高山祭の屋台を見慣れている自分には車山そのものの造りは質素に映るが、からくりの技術は決して引けをとらないように感じられた。「山車(だし)」ではなく「車山(やま)」と呼ぶことも恥ずかしながら初めて知ったのである。
秘かに狙っていた“お城と車山(やま)のツーショット”のスポットは残念ながら今回も見つけることが出来なかった。

なお祭礼の当日、犬山城第12代城主成瀬正俊氏(77歳)の死去が報じられた。 2004年(平成16年)4月財団法人「犬山城白帝文庫」に引き継がれるまでの個人所有者としての“城主”であった人物である。

(参考)犬山祭13台の車山(古い順)
名 称 創 建 年 所属町名
應合子 1635(寛永12) 下本町
眞 先魚屋町
西王母 1649(慶安 2) 中本町
寿老臺 1651(〃  4) 鍛冶屋町
宝 袋 1674(延宝 2) 余坂町
遊漁神枝町
梅梢戯外町組
老 松寺内町
国香様 1683(天和 3) 練屋町
絳 英 1689(元禄 2) 名栗町
咸 英 1699(元禄12) 本町
住吉臺 1771(明和 8) 熊野町
浦 島 1811(文化 8) 新町




(了)