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40  『京舞』観賞記

平成18年10月2日


斐太高校同窓会有志の特別番組は、京都在住K君らのお骨折りで『京舞観賞の旅』となった。
京都を語るに欠かせない春の風物詩「都をどり」を支えているのが井上流京舞である。その家元が総力を挙げて先代四世井上八千代の三回忌追善興行を六日間にわたり行なっていて、その二日目の 祇園甲部歌舞練場へ“大挙18名”で繰り込んだという次第だ。

四条通から祇園の風情たっぷりの花見小路を歩く。学園所有地であったために乱開発を逃れ歴史的風景特別修景地区に指定された貴重な街並で、江戸末期には茶屋500件芸妓、舞妓、娼妓など合わせて1000人を擁す京都最大の花街であったという。
そんな雰囲気のたっぷりと残る街を暫く進むと左手に大きな門構えで伝統を感じさせる古い木造の歌舞練場が現われた。(写真)

正面玄関前にはすでに観客の姿がかなり見られ、突然銀行時代の先輩T氏夫妻から声を掛けられ懐かしむサプライズもあった。
そして玄関を入るやいなやまた驚く。 ずらりと着飾った舞妓さん数十人に両側から迎えられたのである。まさに目を見張るとはこのこと、その豪華さに雲の上を歩くような気分であった。(カメラ撮影が禁止されていて残念至極!)
開演まで少し間があったので別室に展示されている故四世井上八千代の生涯を物語る写真展を観覧。
本名を片山愛子といい明治41年3歳で入門、井上流京舞の古格を正確に伝承し戦後間もなく四世井上八千代を襲名して再興・発展に尽力、昭和30年「人間国宝」に認定され文化勲章など数々の功労賞を受賞、平成16年98歳の天寿を全うした。実に半世紀にわたって家元の重責を担い井上流京舞の今日を築いた人物である。

午後4時開演
1,200席あるといわれる歌舞練場は満員、座った席は中央やや後部左側花道の後ろである。 二日目のプログラムに沿って約2時間の舞台であったが、京舞など全く不案内にも拘わらず華麗な舞台から発する緊張感に些かの退屈もなく堪能できたことに我ながら驚く。
唄と三味線に合わせ寸分狂わぬ優雅な舞はまさに本物の魅力を感じさせ、無表情の顔と繊細な手指の動き、支える足腰の揺るぎ無い強さが印象的であった。
京舞をして「一挙手一投足の動きに一点一画のゆるぎを見せぬ品格の高い芸境」と評される由縁であろうか。

若手の上方唄「東山名所」を皮切りにコミカルな上方唄「三国一」、枝垂桜の優雅な一中節「花の段」、源氏の若武者梶原源太景季を謳いあげた常磐津「箙源太」は襲名後日の浅い現家元五世井上八千代の舞、長唄「木賊刈」と進み、とりは追善興行にうってつけの義太夫「夕顔」。 空也上人の踊り念仏を題材としたもので、五世井上八千代を導師とし一門の名取連30名が紅葉の枝の瓢箪を担いで両脇の花道から登場する様は一糸乱れぬ誠に見事なものであった。
そして閉演・・・・・ 余韻にひたりながら再び舞妓や名取たちの華やかな見送りを受けて歌舞練場を後にする。馴染みの客と交わす京言葉も耳に柔らかい。
花見小路に出るとすっかり夜の祇園に様変わり、灯りが艶かしい街を宴会場へ向ったが、無論芸妓を同行する甲斐性はなく道連れは同窓輩の他は涼やかな京の夜風のみ・・・・・。
K君始め幹事の皆さんにただ感謝!感謝!

因みに「井上流京舞」について薀蓄を一くさり(ネット情報から)
上方舞の中でも、京都固有の特色を持つ井上流を特に『京舞』と呼ぶ。井上流は寛政年間(1789〜1801)に近衛家の舞指南役を勤めた井上サト(初世井上八千代)が宮廷文化を基盤に創始した。
以来ほぼ2世紀の歴史を持ち座敷舞から舞台に乗せて祇園甲部の正式唯一の流派となった。明治初期に始まり今や京都の年中行事の目玉となっている「都をどり」を支えているのもこの井上流京舞なのである。


(了)