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39  「徳山ダム」見聞記 

平成18年7月17日


ダリヤ会恒例の湯の旅、今回は異色で急遽決まった『お勉強の旅』だ。
殆ど完成していてこの秋にも貯水が始まるという「徳山ダム」がそのターゲットである。
昭和37年に計画が動き出したが地元での調整が難航、時の経過ととも変容するその必要性について物議を醸してきた総工費2,540億円という曰くつきの巨大プロジェクトだ。
466世帯1,500人の一村丸々廃村(昭和62年)となった徳山村の跡地がいよいよ水没してしまうのも間近となり8月一杯で廃村の現場に立つことができなくなる。加えて水資源開発事業団が行っている休日のダムサイト見学シャトルバスも8月末で打ち切られると聞くに及んで、一目この目で見ておきたいとの欲望黙し難く“衆議一決”したものである。
あいにくの雨模様でこのところ比較的好天が続いていただけに少々残念だが、見学者が少なく却って好都合ではと負け惜しみ・・・・・。

午前7時30分マイカーで名古屋を出発、揖斐川沿いを北上し目的地「徳山ダム」へ向う。
途中前も見えないほどの土砂降りに遭遇したが、約2時間で予定通り現地(旧藤橋村)「徳山ダム建設パビリオン」に到着した。もう少し走れば福井県に入るという山深い奥美濃である。
悪天候にも拘わらずパビリオンには既に数名の見学者が姿を見せていた。
見学シャトルバスは定員20名のマイクロバスが2台で、午前11時と午後2時の2回の運行になっているが、有難いことに雨天を厭わず足を運んだ熱意を汲んでくれたのか9時45分に“臨時ダイヤ”を組んでくれた。
待ちを覚悟していた1時間余の節約である。
手配してくれた受付の女性は二人とも若くて愛想のよい美人であったがますます輝いて見えたものである。無論一緒に記念撮影するなど抜け目がないのはダリヤ会の変わらぬ得意技だ。
案内係は事業団の若い男性社員二人でバスが動き出すと同時に日本最大級といわれるロックフィル式ダムの建設目的や規模・建設の過程など多分に世評を意識した説明を始めた。
建設目的は
@ 洪水調節
A 河川の一定水量の維持
B 利水調節(水道用水、工業用水)
C 発電
の四つであるが、バブル崩壊など時代の変化とともに本当に必要なのかどうか疑問視する動きも出てきて物議を醸してきた。ダムそのものは平成12年に起工し約6年を経て完成間近となっているが、いまだに建設目的について係争中でついこの間その妥当性を認める裁判所の判断が示されたばかりである。

最初の見学ポイントはダムサイトを一望する管理事務所近くの展望台で、幅500m高さ161mの巨大なロックフィル式堤体を眼下にしながら構造や機能の説明を聞く。(写真)
使われている岩石は近くの山(原石山)をまるごと崩して運んだ粘板岩や輝緑凝灰岩でその量は1,370万立米という。またスキーのジャンプ台のような洪水吐きの構造が目を引いた。
第二のポイントは原石山の砕石現場を見ながら降りてダム湖側から堤体を見上げる場所。二つの取水口を持つ選択取水塔はまだ工事中であったが、高さ161mの堤体の威容を実感する。そしてさらに湖底部分に降りて(第三のポイント)岩石運搬に使用した巨大なダンプカー(44t)の実物を見る。工事最盛期にはさらに大きな76tのダンプカーが投入されたとか。
近くにはダンプカーなど巨大な作業機械の組み立て解体が行なわれた工場が巨大な骨組みをさらしていて工事のスケールを思わせる。このあたりは全て湖底に沈むのであるが満水に至るまでには一年半はかかり、その水量6億6千万立米は浜名湖の2倍ほどにあたるという。
約1時間の見学コースはこれで終わったが、雨足は一向に衰えずパビリオンに戻りビデオや展示品を見てさらに理解を深めた。

昼食後今度はマイカーでダムの湖底に沈む旧徳山村の跡地に向う。幸いまだ乗り入れ規制はなく揖斐川にかかる橋を渡りかつて村の中心であった徳山地区に入った。
山際に3階建てコンクリート造りの徳山小学校が墓標のようにポツンと取り残されているのが目に付く。(左写真)
村民たちのたっての願いで取り壊しを免れた唯一の建物である。
坂道を登り建物のすぐ近くを通り雨にぬかるむ小さな校庭跡にも足を踏み入れた。夏草がまとわり付く校舎には数字も剥げ落ち針が一本だけ辛うじて残る大時計が廃校後の歳月を偲ばせる。子供達が卒業記念に残したものであろうか小さな手形を印した陶板の碑が草むらの中に埋もれていた。
道路を挟んで家々が並んでいたと思われる辺りは身の丈以上に伸びた夏草に埋もれその跡さえ定かではない。僅かに火の見櫓の赤錆びた鉄塔だけが往時を伝えている。(下写真)
我々以外には訪れる人影もなく降りしきる暗い雨の中でやがて水深100mを越す湖底に沈む運命を静かに待っているようであった。
見上げる南の方角には、湖面に美しく浮かぶことになる貯水池横断橋「徳山八徳橋」が聳えるような橋脚(高さ130m)を見せ既に完成していた。
さらに上流には幾つかの集落が水没を待っている筈であるが、これ以上見るに忍びず引き返す。
途中には湖面を臨む絶好の位置に「徳山会館」が殆ど完成に近い姿を見せていた。今は亡き地元の写真家増山たづさんの貴重な記録写真もここに展示されるに違いなく、消滅した故郷を偲ぶ旧住民の心のよりどころになるのであろうか。
用意してきたスケッチ道具もこの雨では活躍の場もなくリュックのなかで昼寝するのみ、 何となく重い気分を引きずりながら「徳山ダム」を後にしたが、あながち天候のせいばかりではないようである。
宿泊予定の「うすずみ温泉四季彩館」へ向かう途中、明治24年の「濃尾大震災」の折に出来た高さ6mにも及ぶ根尾断層を見学した。
隣接する「地震断層観察館」では被害の惨状を知りその凄まじい揺れを体感することができたが、智恵をしぼり自然を制御しようとする人間の試みをあざ笑うかのような桁外れのエネルギーを見せつけられてますます気分が重くなる。
はやく温泉で疲れを取り旨い酒を飲みたいものと山間の雨の国道を急ぐ・・・・・。

(湛水間近、8月24日再訪を果たす)
宿題を残したまま日を過すに忍びず再び徳山の地を踏む。
照りつける夏の陽射しの下、村民たちの想いを抱いて湖底に沈む日を待つ徳山小学校をスケッチ。 徳山小学校「最後の夏」

※ 同年12月初雪が舞った日に、まさに湖底に沈まんとする徳山小学校の写真が中日新聞に掲載された。その冷たく哀しい風景を「初雪の旧徳山村」に綴っている。

(了)