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35  パーソナル・チェック 雑感

平成18年3月15日


春本番を思わせるうららかな水曜日の午後、統合で一変した三菱東京UFJ銀行名古屋営業部を訪ね発行依頼していた個人当座小切手帳を受け取る。
ピンク色ののっぺりした味気の無いデザインにいささかがっかりさせられたが、かつては銀行大衆化、ピープルス・バンキングの担い手のひとつであった「個人当座(パーソナル・チェック)」も、今ではすっかり落ちぶれて存続の危機さえ囁かれる“お荷物商品”になりさがっているようである。
しかし私はこの小切手にかけがえのない愛着を感じている。
30年以上も前の東海銀行本店で個人当座を開設し、現在に至るまで整理されることもなく口座を維持し続けてきた。 というのも小切手の下部余白に印字されているMICR(磁気文字識別方式)文字 に、情熱を燃やして取り組んだ若き日の熱き想い出が滲んでいるからである。

昭和38年、大型コンピューターの導入など銀行事務の合理化が急速に進展し始めたその頃事務管理部に転入し、程なくプロジェクトの一員として当座事務の合理化に携わることになった。
当時資金決済手段の大半を担っていた膨大な量の手形・小切手の交換処理や記帳処理が機械化合理化の重要なテーマとなり、インターバンク(銀行協会)での検討が精力的に進められていた。

その中心的課題が@手形・小切手の横書き様式統一A夜間交換制度実施B交換所番号や銀行番号(共同コード)の制定C機械処理方式の決定などで、 私はCの研究開発に加わり、現物と情報の一体化をベースに見易さと安定度からMICR E−13B方式(米国)の採用に至った(昭和39年)。
各銀行統一の使用フィールド(MICR印字欄)と共同コードも制定され(昭和40年)、 東海銀行の銀行番号は“11”(東京、大阪、名古屋・・・・手形交換所の順に本店所在地により付番された)で1が並ぶ験のいい番号であった。

手形(昭和40年)小切手(昭和43年)の規格様式の統一が図られ、平行して各銀行は一斉に機械化合理化に取り組むことになったが、技術的な問題として、手形・小切手用紙の紙質とMICR印字の精度の確保が意外に難しい問題として浮かび上がってきた。製紙会社や印刷会社にせっせと足を運ぶ日が続くことになるのであるが、試験用に高価なMICRリーダーソーターやプリンターを導入し試験と改良を繰り返して、ようやく合格点が得られた時の喜びを今も忘れていない。
そして東京地区での夜間交換制の実施(昭和42年)、当座勘定処理の集中(昭和44年)へと展開していくのである。
各銀行とも苦労したようだが、当時この案件に限らず機械化・合理化の分野で東海銀行は確かに先頭を走っていたのであり、実にバイタリティーに溢れた若々しい銀行であった。

そんな想いの籠った小切手を手にして、銀行番号が“11”からUFJ銀行になって“8”となり、そして今“5”に変わったことに象徴的な時の流れを感じる。
当時15番ぐらいまであった都銀(都市銀行という呼称も今は昔の懐かしい響きになってしまった)のコードで今いったいどれだけの番号が残っているだろうか・・・・・などと感慨にふけっている。しかし嬉しいことに銀行再編の嵐などどこ吹く風と、MICRは激しい技術革新のなかで埋没することなく、今日まで手形や小切手の片隅で40年にも及ぶ命脈を保って生き続けているのである。

写真は在りし東海銀行のパーソナル・チェック。広重の「東海道五十三次“小田原”」をあしらった図柄が暖かく懐かしい。
この一枚の小切手は当時の東海銀行の面影を偲ぶ「生き証人」のようなもので私の秘密の「お宝」である。

(了)