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32  私の「藤沢周平」

平成17年11月30日


『たそがれ清兵衛』、『蝉しぐれ』、『隠し剣鬼の爪』、『秘太刀馬の骨』・・・・・この数年映画やテレビ・ドラマで静かな「藤沢周平ブーム」が続いているが、私の「周平オタク」も結構古い。
絵画の佐伯祐三に匹敵する歴史・時代小説の“特別お気に入りの作家”なのである。
藤沢周平逝去の報が流れた平成9年ごろから急激にのめりこんで通勤電車の読書の対象は殆ど藤沢周平の本が独占し、約一年間で30冊を越える“周平本”がたまってしまった。
日記「こもれび」第13巻々頭(平成10年7月)で、そのオタク振りを綴っており懐かしく読み返す。

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(平成10年7月11日)
日記「こもれび」第13巻を書き始める機会に、ほぼ1年間にわたり愛読してきた「藤沢周平」について総括しておきたい。

そもそものきっかけは、ある尊敬する先輩から「このごろ藤沢周平に凝っているが、司馬遼太郎には無い人間的な深い味わいがある。」と薦められたことに始まる。勿論この作家の名前は知っており、2,3の本を読んだ記憶はあるが特別な印象はなかった。 しかし試しに『蝉しぐれ』を読んだところたちまち魅入られてしまったのである。

藤沢周平は昭和2年山形県鶴岡市に生まれ少年期は戦時統制化の暗い時代であった。戦後間もなく(昭和24年)山形師範学校を卒業し郷里の中学校の教壇に立つのだが、程なく結核に罹り5年に及ぶ療養生活を余儀なくされてしまう。
回復後業界記者として復帰したものの悶々として楽しめず、このまま一介の田舎記者で埋もれてしまうのではないかとの不安が彼を小説に向かわせたといわれている。
毎年一回ぐらい投稿していたが、昭和46年『溟い海』でオール読物新人賞を受賞して頭角を顕し、48年『暗殺の年輪』で直木賞を受賞して一躍文壇に登場することとなった。齢46歳での大転進であり遅咲きの新人作家となったのである。

その後、堰を切ったかのように次々と発表される小説は、彼の故郷である山形を中心とする東北地方を題材とするものが多く、市井人情ものの時代小説から本格的な歴史小説など、実に全集23冊を数え原稿用紙にして3万枚を越える健筆ぶりであった。
舞台となる時代背景は鎖国の平穏を貪る江戸時代で、社会の底辺に生きる下級武士や浪人・町人たちが主人公、江戸時代の情緒と風景の中に織りなす人情の機微を描いて読者の心をすっかり虜にしてしまう。
時代の波に押し流されていく儚い人間の生き様は、ともすれば暗く悲しい色調に埋められるが、ほのかな親子の情愛や恋の匂いが時に明るい色彩を放って、何かほっと救われる心憎いばかりのコントラストを描き出している。藤沢周平という小説家の人生そのものの投影であり、彼の体温を感じさせてくれるようである。

また読者の心を魅きつけてやまないもう一つの魅力は、時折顔を出す自然と季節の懐かしい描写である。
例えば『蝉しぐれ』の中で寒村の田園風景を描いたくだり・・・。
「・・・・・いちめんの青い田園は早朝の陽ざしを受けて赤らんでいるが、はるか遠くの青黒い村落の森に接するあたりは、まだ夜の名残りの霧が残っていた。じっと動かない霧も朝の光をうけてかすかに赤らんで見える。そしてこの早い時刻にもう田圃を見回っている人間がいた。黒い人影は膝の上あたりまで稲に埋もれながら、ゆっくりと遠ざかっていく・・・・・。」
まるで絵を見せられているように心にしみ込んでくるのだが、自然の描写をとおして静かでふくよかな作者の心情がそつそつと伝わってくる。遠い幼い日にどこかで見たような「既視感(デジャウエ)」で読者の心をとらえようとしているのであろうか。
しかし残念ながら藤沢周平は昨年(平成9年)1月、享年70歳で病没。

本格的な小説としては絶筆といわれる上杉鷹山を題材とした歴史小説『漆の実のみのる国』(上・下巻 写真)が今机の上に乗っている。美しい箱入りの装丁本で表紙には薄い紙が巻いてあり、何やら勿体なくていつ読もうかと要らぬ思案をしているところである。

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その後蔵書の一部は病床にある友人の枕辺に去ったが、まだ20冊を越える“周平本”が再び読み返される日を待って今も本棚に収まっている。


(了)