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18  飛騨路の早春賦「白線流し」

平成16年3月2日


朝刊に懐かしい写真と記事が掲載されていた。
「雪国高山に春を告げる・・・」と毎年のようにニュースの材料になる斐太(ひだ)高校卒業生の「白線流し」である。高校の卒業式が全国的に知られているのは珍しくOBとして秘かな誇りを感じている。
学校の前の大八賀川に架かる合崎橋近くでのこの光景は、三月とはいえまだ雪が残り寒々としていた。
白線は男子の制帽の二本の白線がルーツ、戦後男女共学になり女子セーラー服の白いスカーフが加わる。今では制帽をかぶらなくなっているためスカーフが大半を占めているようで、新聞の写真にもその有様がまざまざと映し出されていた。
(写真は3月2日朝日新聞朝刊から)
我々の頃は(昭和33年)まだ制帽をかぶって登校するのが普通で、薄汚れた白線をはずしスカーフとともにつなぎ合わせ、卒業生が川べりに列を作って手送りしながら川に流す。そして卒業生も在校生も全員で歌う送別の歌が「巴城ヶ丘別離の歌」であった。

“友よ試みに合崎橋畔に立ちて母校斐高を顧みよ。
さする時君はそこに三年の渾々として尽きざる思い出の泉を見出し、
若き日の魂の故郷巴城に限りなき別離の情を覚えるであろう・・・
いざ共に歌わんかな巴城ヶ丘別離の歌を。
Eins Zuei Drei……….“

1 巴城ヶ丘にのぼりえて
  春秋ここに三星霜
  勇壮清きアルプスの
  峰を仰ぎつさる雲に
  思い托して我はゆく

2 春は山辺の逍遥に
  散る葉の秋に思いよせ
  雪の芝生に若き日の
  希望を語りつさる君と
  共に誓いて我はゆく


毎年この季節に胸を熱くして思い出す青春の一コマであり、ここに巴城ヶ丘とは学校のすぐ裏にあって校舎を守るように立つ丘の名である。
この歌は長く作者不明とされていたが、太平洋戦争の最中、戦地から帰還した先輩がその戦果を報告している姿を見て、斐太中学校第57回(昭和20年3月)卒業生、河内敏明氏が作詞作曲したものであることが判明した。その後歌詞は一部「高校仕様」に改められ、その哀調を帯びた調べとともに60年近く連綿と歌い継がれてきているのである。
斐太高校のホームページ(学校の概要)には校歌等とともにこの歌も演奏付で収録されている。)

さて我が岐阜県立斐太高等学校とは。
明治19年(1886年)飛騨三郡経営高山中学校として開校したのがそもそもの草分けで、岐阜県では岐阜高等学校に次ぐ実に120年の歴史を持つ名門中の名門校である。
明治34年(1901年)岐阜県立斐太中学校と改称、蜻蛉(とんぼ)の校章が制定された。「斐太」は万葉集の一説から採られたもので、蜻蛉の校章は幸田露伴や大町桂月らに賞賛され、「蜻蛉州(あきつしま)」(=日本国の古称)に雄飛せんとする願いがこめられているという。
(今でも在校時の蜻蛉の帽章を大切に保管している・・・写真)
昭和23年(1948年)学制改革により岐阜県立斐太高等学校と改称今日に至っているが、飛騨地区教育の中枢的存在として地域文化の振興に貢献し、幾多の偉大な先輩を輩出してきたのである。
私の高校生活は県立高山高校で始まったが、昭和32年3年生になった時に再配置が行われ普通科が統合されて斐太高校に移ることになった。したがって純粋の「斐高健児」と言うわけにはいかない。しかし31年夏の斐太、高山両校同時全焼という悲劇から分散授業など苦労を味わい、図らずも再配置・再出発の初代卒業生ということになってひときわ強い印象と愛着を持ち歴史の重みを感じている。

因みにその歴史の象徴とも言える斐高名物「白線流し」のルーツは、一説には大正の初め、ストライキを理由に多くの生徒が退学や謹慎の処分を受けた。その生徒達が学校を去るとき「二度と帰らず」と大八賀川に帽子の白線を投げ入れたものとされているが、 「白線流し」も既に一世紀に及ばんとする時を刻んでいることになる。

(了)