■保存版■
保存版ー目次へ戻る
BACK TO <TOP PAGE>

17  北信濃「渋温泉」紀行

平成15年11月1日〜2日


ダリヤ会第15回温泉行は何度か企画しては流れていた待望の北信濃の古湯「渋温泉」である。
よほどメンバーの心掛けが良いのであろうか絶好の秋晴れに恵まれたが、 汗ばむほどの暖かさで行楽地の人出が大変だろうと却って心配になるほどであった。
名古屋を朝8時に出発した3人がほぼ予定通り可児市花木センターに到着し合流して9時長躯北信濃に向う。
多治見インターから中央―長野―上信越と順調に高速道路(240km)を走り継いだが、ようやく盛りを迎えようとしている紅葉は北へ行くほどその鮮やかさを増していた。

正午過ぎに長野東インターを出てまず小布施町で"途中下車"した。
信濃へ来ればおそばを食べなきゃ始まらぬと、予め調べておいたお目当てのそばや「鼎(かなえ)」を探す。
町の中心部に近い住宅地でみつけたものの、店の前には10人は下らぬ客が待っている。聞けば30分は待たねばならぬとのことであったが、せっかくだから初志貫徹と付近を散歩しながら待つことにした。ようやく順番が来て席に就いたものの残念ながら名物「十割そば」(蕎麦粉100%の手打ちそば)は売り切れで、やむなく「天ぷらそば定食」で腹ごしらえを済ませた。

そしてまず「北斎館」へ。
版画で知られる葛飾北斎(1760〜1849)の肉筆画が数多く展示されているところにこの美術館の値打ちがあるのか、軸や屏風に描かれた美人画や花鳥図に「これが北斎の真実か」と認識を改める。
また北斎が描いた天井画のある祭屋台も展示されており、この地に馴染んだ北斎の晩年が偲ばれ、版画の色調にも通じる藍色の色感が印象的であった。
案内によれば「齢75歳にして時様風俗を描く浮世絵から離れ自己の絵画姿勢を肉筆画の世界へと向けた......」とある。江戸時代には珍しく90才の長寿を全うした北斎は自らを「画狂人」、「不染居」と称し、老境にして過去の名声・蓄積から離れ、敢えて新境地を拓こうとしたバイタリティは驚異的だ。

その北斎が80歳半ばに庇護を受けたといわれるこの地の豪商高井鴻山(1806〜1883)の記念館が隣にあり見学する。
若き鴻山が北斎を遇した離れの一棟が残されていたが一部屋だけの小さな建物であった。気侭に寄寓するアトリエとしてはこれで十分との北斎の気持であったろうか。
鴻山は北斎を師と仰ぎ自らも絵筆をとって数多くの妖怪画や山水画、墨蹟を残している。特に揮毫した旗幟の雄渾、剛胆な筆勢が鴻山の気迫を伝えていて誠に印象的であった。
錦秋の三連休でしかもこの好天、小さな街は溢れんばかりの人出。「北斎館」も「鴻山記念館」も入館者が多く、特に北斎館ではじっくり観賞する余裕が無かったのは少々残念であったが、秋の落日は早い。
人ごみの中を抜け出して、勇躍、北斎も逗留した渋温泉御宿その名も「棲鳳館ひしや寅蔵」に向う。
時計は午後3時半を回ったところ、この辺りはちょうど紅葉が見頃で美しい景観が続く。到着した古湯"渋温泉"は聞きしに勝る隘路で操車に一苦労、御宿の看板は見つかったがどこが駐車場でどこが本館なのかよくわからない。ようやく探し車を町営駐車場へ入れて御宿に到着した。


御宿「棲鳳館ひしや寅蔵」は狭い路地に囲まれているが、さすがに渋温泉随一の老舗に相応しく堂々たる構えであった。(写真)
玄関には日本画家橋本関雪が昭和初期に来泊した折に揮毫したという「ひしや」の大看板が掲げられ、脇には「信州松代藩郡中横目付佐久間修理象山先生御泊りの宿」と、いかにも仰々しい立て札が立てられていた。
案内書に定員40名とあったが大きな結構のわりには意外な員数である。
通された部屋は「泥舟」....チョット元気の出ない名だが、かつて訪れたという高橋泥舟(山岡鉄舟の義兄で幕末三舟の一人)からとった名と知り納得。一服したあと、浴衣・半纏の粋なスタイルで渋温泉名物の「厄除け順浴外湯巡り」と洒落こんだ。
.....が、温泉街の真ん中の賑やかな通りを挟んで点在する外湯はどこも超満員、しかも風呂や脱衣場の広さが思ったより狭く浴客で溢れるばかりであった。
早々に諦めて御宿に戻り佐久間象山ゆかりの露天風呂につかることにしたのが正解で、我々以外に人影も無くようやくゆったりした気分に浸ることが出来た。
苔むす岩石に囲われた露天風呂に身を浸しながら、この宿に逗留した偉大なる先達たちの姿を湯煙の中に想い描く。かの佐伯祐三もその痩身をこの湯で癒したに違いない。

さてこの御宿「棲鳳館ひしや寅蔵」とは.....。
渋温泉は開湯1300年の古湯であるが、その中心に位置するこの御宿はおよそ400年前、関ヶ原の合戦の頃の創業で現在の当主は13代目になるという。幕末の先覚者であり当地開発の功労者として敬慕されている松代藩士佐久間象山(1811〜1864)が逗留したゆかりの湯宿として知られている。
宿そのものが記念館といった風情で、象山の書を始め葛飾北斎、小林一茶、山岡鉄舟、中山晋平、若山牧水、高井鴻山などなど来湯した著名な人物のゆかりの書画などが無造作に展示されていた。
わが敬愛する佐伯祐三も訪れており、山田新一著「素顔の佐伯祐三」に一回目の渡仏前(1923年夏)に、”信州渋温泉ヒシヤ旅館へ妻子や親友木下勝治郎を伴って避暑静養に出かけた”というくだりがある。ために関東大震災の難を免れたが、その折に逗留中の祐三あてに縁者の無事を告げる葉書が届いたとされていて、ひょっとしてその葉書か何か足跡を証明する遺留品にお目にかかれるかも知れないと淡い期待を抱いていたが何も発見できなかった。

そしていつもの楽しい「ダリヤの宴」となる。
この頃の世相や家族のこと、将来の生活設計などなど酒も進み話は弾んで時を忘れる。
しばらくすると直ぐそれとわかる風貌の第13代当主が挨拶に現われた。
御宿にまつわる歴史など問われるままに話してくれたが、慶応年間(1865〜1868)に大火があり御宿を始め悉く灰燼に帰しそれまでの貴重な資料が失われてしまったという。以来現在に至るまで町を挙げて365日「夜警の火まわり」を続けているとのことである。軒を接するように密集する旅館街で、失火は文字通り命取りとなるに違いない。
佐伯祐三の遺留品についても確かめてみたが残念ながら何も残っていないとのことであった。

約2時間半の宴も終り、あとは好きなカラオケでもと街に繰り出す。
夜になって冷え込んできて人影もまばらであったが酔い心地には丁度いい冷気で、石畳に響く下駄の音だけがカラカラと大袈裟であった。
見上げる狭い空には明日の好天を約束してくれる嬉しい星がまたたいている。
翌早朝の「早業スケッチ」敢行は言うまでもない。

(了)