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16  「海具江古墳」実地見聞録
平成15年9月7日(日)



9月4日帰宅途中の電車の中で聞くともなく聞いていた携帯ラジオから「岐阜県国府町.......」と懐かしい故郷の名が飛び込む。何だろうと耳を傾けると「飛鳥時代の古墳が発掘された」という。
こよなく故郷を想うわが身にとって、これは耳寄りなニュースである。
そして7日(日)午前10時に現地で見学会が催されるとのことでこれは見逃せないと思い立った。
幸いその日は何も予定が無い。
翌日の新聞を漁り朝日、中日、岐阜新聞の記事をスクラップ、概要を詰め込んで7日早朝勇躍41号線を北上する。勿論BM君は快調、願ってもない快晴.......。
午前9時、現地国府町宇津江に到着。住宅地を抜けると駐車場が用意されており、車を降りて山沿いに続く坂道を標識に従って登って行くと、山あいにそれとわかる墳丘が現われた。手前の空き地には小さな青いテントが張られ既に5、6人の人影があった。

人の少ないうちにと撮影にとりかかる。
大体想像通りであったが入り口付近の石の大きさには驚かされた。写真ではわからない実在感〈量感〉である。
棺が納められていた玄室に入ってみたが天井の高さは2メートルを越し思ったより広い。外観は発掘された部分を除けばどこにでもあるような小さな丘といった感じだが、今回の発掘の結果この地方には珍しいとされる二段築成の「方墳」であることがわかり、その二つの角がおぼろげに認められる。(資料によれば一辺の長さは約20m、高さ5.5m)
既にこの古墳の存在は知られており郷土の資料にも掲載されているが、本格的な調査はされていなかったとのことである。

一応の撮影を終えテントへ行くと白布をかけたテーブルの上に出土した土器類(高坏や平瓶など20点ほど)が並べられ、3ページ程の説明資料が用意されていた。。
主催者と思しき人に挨拶すると新聞に載っていた写真の人物と知れた。
国府町教育委員会の松本さんで、定年後も町史編纂の責任者としてその一環の事業である今回の発掘調査に携わっているとのことであった。
今日はこの発掘調査を宰領された考古学の権威で地元高山市出身の八賀 晋先生が来ておられると聞き、さっそく挨拶にいくと学者には似合わず誠に気さくで「遠いところを来ていただいて」と丁重なご挨拶を頂き恐縮した。
今まで著書や論文で度々お目にかかっていて、ひょっとしたらと思ってはいたが何という好運であろう。 滋賀から直行されたそうで今日は古墳発掘にまつわる話や古代飛騨地方の歴史などを聞かせていただけるとのこと、出かけてきて本当によかったと思う。おまけに「ツーショット」をお願いすると快く応じて頂いた。(写真)
また、以前電話でお話を伺ったり資料を送って頂いたりした酒井教育長にお目にかかることが出来た。

開会時刻の10時頃には空き地が一杯になるほどの人が集まってきた。120〜30人ぐらいはいるだろうか。やはり僕らのような中年男女が多いが子供たちや若い人たちも結構いて関心の高さを伺わせる。

以下は八賀先生のお話や質疑応答の中から....
@ 今回出土した副葬品から推定するとこの古墳は650年から700年頃(飛鳥白鳳時代 大化の改新のころ)の間に築造されたと考えられる

A  飛騨地方では海具江古墳のように巨石を使った方墳は極めて珍しい。2メートルもの巨石を使った例は他に古川の高野古墳があるのみ、方墳は他に国府-古川盆地に2例を数えるのみ。

B 巨石を用い入り口に門を構えた横穴式石室様式は大和には見られぬ構造で「越(こし)の国」福井地方から伝わったものである。

C  飛騨地方に方墳が少ないのは、もともと弥生時代の墳墓の様式は方墳が主流であったが大和からの円墳中心(前方後円墳を含む)の時流に流されてしまった為で、中には伝統を重視する在地性の高い実力者も居たということではないか。

D  巨石は花崗岩でこの地方には一般的な岩石だが、これだけの大きな石を積み上げるには相当な労力を必要とし施主は富力のある豪族であろうと考えられる。時あたかも飛鳥・藤原京の造営時期で飛騨地方から庸・調(税)代わりに建築技術者(飛騨匠)がたくさん徴用されたが、それらを束ねる実力者が埋葬されたのかもしれない。

E  飛騨地方の古墳の分布が国府―古川盆地に著しく偏っているのは当時の人口の分布によるもの。奈良時代に到る前は北陸との交流が主流で、大野郡(高山市も含む)や益田郡の当時は比較的人口は少なかったと考えられる。(なお大野郡東部についてはさらに調査が必要だが)

F  飛騨の国府は何処であったかも上記の事情に鍵がある。古代飛騨の政治文化の中心は国府―古川盆地であったことは古墳や古代寺院の分布など多くの古代遺跡から明らかであり「国府」(こうと称す)も現在の国府町にあったと考えるのが自然である。大和朝廷の中央集権が確立する奈良時代になって大和を中心とする道路網が整備され飛騨の表玄関は美濃方面に面するようになって現在の高山市に移ったと考える。新しい国造りや改革には旧勢力からの脱皮を図るため遷都を実行した史実もあるいは参考になるかもしれない。(私の質問に答えられて)

G  過去発掘されてきた巨石墳では時期を確認できる遺物の発見が皆無で築造時期が不明であったが、今回の調査で盗掘を免れ発見された土器類から7世紀中葉期から築造が始まったとする可能性が極めて強いことが明らかとなった点に今回の発掘の大きな意義がある。

など誠に興味深くユーモアたっぷりの話し振りに引き込まれ、古代ロマンに夢を馳せながらしばし時の経つのを忘れる。
八賀 晋(すすむ)先生略歴
1934年 岐阜県高山市出身
名古屋大学大学院卒業、考古学。京都国立博物館、奈良国立文化財研究所などを経て現在は三重大学名誉教授。
著書論文「地方寺院の成立と歴史的背景」「古代における水田開発」「弥生人とその文化」「考古学その見方と解釈」「古代の水田耕作と技術」「登呂遺跡と弥生文化」など
木陰には涼しい風も吹き抜けてさながら「八賀林間学校」の趣であった。
閉会後八賀先生や酒井教育長、松本氏にお礼を述べ海具江古墳を後にした。 約3時間の見学に収穫は十分、それに八賀先生を始め教育委員会の方々とも面識を得られ本当に良かったと豊かな気分に浸りながら帰途に就いた。
既にホームページ掲載の構想が出来上がっているのは言うまでもない。
※ 御用とお急ぎでない方はどうぞ.....国府町の自慢「海具江遺跡」へ

(了)