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16 「海具江古墳」実地見聞録 |
@ 今回出土した副葬品から推定するとこの古墳は650年から700年頃(飛鳥白鳳時代 大化の改新のころ)の間に築造されたと考えられる A
飛騨地方では海具江古墳のように巨石を使った方墳は極めて珍しい。2メートルもの巨石を使った例は他に古川の高野古墳があるのみ、方墳は他に国府-古川盆地に2例を数えるのみ。 B
巨石を用い入り口に門を構えた横穴式石室様式は大和には見られぬ構造で「越(こし)の国」福井地方から伝わったものである。 C
飛騨地方に方墳が少ないのは、もともと弥生時代の墳墓の様式は方墳が主流であったが大和からの円墳中心(前方後円墳を含む)の時流に流されてしまった為で、中には伝統を重視する在地性の高い実力者も居たということではないか。 D
巨石は花崗岩でこの地方には一般的な岩石だが、これだけの大きな石を積み上げるには相当な労力を必要とし施主は富力のある豪族であろうと考えられる。時あたかも飛鳥・藤原京の造営時期で飛騨地方から庸・調(税)代わりに建築技術者(飛騨匠)がたくさん徴用されたが、それらを束ねる実力者が埋葬されたのかもしれない。 E
飛騨地方の古墳の分布が国府―古川盆地に著しく偏っているのは当時の人口の分布によるもの。奈良時代に到る前は北陸との交流が主流で、大野郡(高山市も含む)や益田郡の当時は比較的人口は少なかったと考えられる。(なお大野郡東部についてはさらに調査が必要だが) F
飛騨の国府は何処であったかも上記の事情に鍵がある。古代飛騨の政治文化の中心は国府―古川盆地であったことは古墳や古代寺院の分布など多くの古代遺跡から明らかであり「国府」(こうと称す)も現在の国府町にあったと考えるのが自然である。大和朝廷の中央集権が確立する奈良時代になって大和を中心とする道路網が整備され飛騨の表玄関は美濃方面に面するようになって現在の高山市に移ったと考える。新しい国造りや改革には旧勢力からの脱皮を図るため遷都を実行した史実もあるいは参考になるかもしれない。(私の質問に答えられて) G
過去発掘されてきた巨石墳では時期を確認できる遺物の発見が皆無で築造時期が不明であったが、今回の調査で盗掘を免れ発見された土器類から7世紀中葉期から築造が始まったとする可能性が極めて強いことが明らかとなった点に今回の発掘の大きな意義がある。 |
八賀 晋(すすむ)先生略歴 1934年 岐阜県高山市出身 名古屋大学大学院卒業、考古学。京都国立博物館、奈良国立文化財研究所などを経て現在は三重大学名誉教授。 著書論文「地方寺院の成立と歴史的背景」「古代における水田開発」「弥生人とその文化」「考古学その見方と解釈」「古代の水田耕作と技術」「登呂遺跡と弥生文化」など |